第五話 御神木に祈りを <前編>
前編
朝の占いコーナーを熱心に見ていた座敷童子さんは、視線をテレビ画面に釘付けにさせたまま、「涼介さんの今日のラッキー料理は、コルドンブルーだそうです!」と、言った。
独り暮らしだった時はBGMの代わりにただ漫然とつけられていたテレビだったが、座敷童子さんとの共同生活が始まってからというもの、情報収集に余念が無い彼女の巧みなチャンネル捌きによって、毎朝チカチカと大忙しである。
「占いかい?」
座敷童子さんが占い好きだったとは、意外だ。
いや、そもそもコルドンブルーって何だ。料理なのだろうか。
「コルドンブルーって、何でしょう?」
首を傾げながら問い掛けてきた座敷童子さんに向かって、私は同じく首を傾げるしかなかった。
「今日はお墓参りに行くから、そろそろ準備しようか」
はい、という元気の良い返答があったものの、座敷童子さんの視線は、朝の情報バラエティー番組に対して、どこか名残惜しそうだった。
元日から連日放送されてきた長時間のスペシャル番組の帯の長さも、漸く落ち着きを取り戻し始め、逆に普段と変わらない占いコーナーのような派手さの薄いものに、私も新鮮な好ましさを覚えた。
「墓参り、墓参り!」と、自分にも少し言い聞かせるように、リズミカルに言いながら、私は彼女を連れて洗面所に向かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
寂れた駐車場にぽつんと一台だけ停められた車から降りる。
「ここに来るのも数ヶ月振りだな」
私は毎年正月になると決まって両親の墓参りに来る、それも元日ではなく少し経ってから。思い立ったらなるべく足を運ぶようにはしているものの、それほど頻繁には来れていない。
いつもは一人なのだが、家に置いていく訳にもいかないと思い、今年は座敷童子さんも連れてくることにしたのだった。
山の中腹にある墓地から少し離れたこの小さな駐車場は、余り利用する者が少ないのか、いつ来てもがらんとしていて、墓地に向かう前の空虚な感覚に似つかわしい物寂しさを呈している。年末にほろりと降った雪は積もらず、日陰においても、その痕跡を残してはいない。
「こっちだよ」と、車の鍵を閉めた私は、菊の花を大事そうに抱えている座敷童子さんに優しく言う。
墓地までの緩やかな山道の傍らには、大雨で本流が増水した時に氾濫してしまわないように造られた細い人工の川が静かに流れている。
去年の夏に来た時は、日照り続きによって上流で流れを断ち切られたのか、複数の水たまりと化した川の切れ端の一つに小魚の群れが取り残されていた。
彼らがそのまま太陽に焼き殺されたか、その後に降った雨によって下流の湖へと旅立って行ったかは分からないが、墓参りという一種の儀式に向かう私の心境に『命』という細やかな認識を残したのを今でも覚えている。
水量豊かな今日の透き通った川の流れは、すっかり冬の表情をしていた。
御参りが済み、菊の花を整え、他の家々の墓前に備えられた色鮮やかな仏花の間を抜けて墓地を出る。
砂利道を踏みしめる小気味良い音が、少し気分を晴れやかにしてくれる。天気も良い。
「散歩がてら、少し回り道してみようか」
私に気を使ってか終始厳かな様子だった座敷童子さんに、私は感謝の意味も込めて打診してみる。
「行きましょう! 行きましょう!」
座敷童子さんは嬉しそうな様子でぴょんぴょんと跳ねながら、駐車場とは違う方向に伸びた山道を先導してくれるようだ。
ハイキング気分で、初めて歩く脇道をゆっくりと上っていく。耳を澄ませると、先程の人工の川の音か、どこかに流れている本流の音か、優しい川のせせらぎが聞こえてくる。それと同時に、すっかり葉を落とした木々がかさかさと枝を震わせ、乾いた冷たい風が頬を撫でる。
すると、どこまでも落ち葉が重なり合う一面朽葉色の山道に『献灯』と刻まれた石灯籠が徐に見え始めた。
「神社でもあるのでしょうか?」と、私の少しだけ先をふわふわとスキップしていた座敷童子さんが、振り返りざまに言う。
「きっとそうだろうね」と、言いながら私は少し落ち着かなくなった。
何故なら、物心ついた時から私は神社というものが苦手だったからだ。
それは、鳥居を一歩くぐった時から感じる神社特有の粛然とした雰囲気が、この場所は業の深い自分には相応しくないと、私に強く思わせるからだった。友人に誘われて某神社の式年遷宮を見に行ったことがあるが、ずっとそわそわしていた気がする。
そのまま林の中の一本道を進んでいくと石段が現れ、そこを登っていくと、やはりというか、当然というか、寂れてはいないが、ちんまりとした神社が見えてきた。
「初詣していきましょう!」と、鳥居の前で足を止めていた座敷童子さんが、プチ登山に息切れ気味の私の顔を覗き込んで言った。
「良いけど、大丈夫なの? 祓われたりしない?」
「私は良い妖怪だから大丈夫なのです!」
そう言って座敷童子さんは自信満々な顔をしながら、正々堂々と鳥居を潜っていった。
てっきり寺社仏閣は妖怪変化の類にとって禁足地なのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。聖域であれ、とまでは思わないが、神社に対して見えない圧を勝手に感じていた私は少し拍子抜けした。
参拝を終え、神社の敷地を見渡す。数本の石灯籠とおみくじの無人販売機だけが無造作に置かれている。狛犬は置かれておらず、静寂に包まれた境内には人の気配が無い。しかし落葉が一ヶ所に集められているので、どうやら管理者はいるみたいだ。掃き清められた石畳に葉陰が静かに揺れている。
「ここ数年、初詣なんか来たことなかったなぁ」
「じゃあ、おみくじ引きましょう! おみくじ!」
不思議なもので、占いは当たるも八卦当たらぬも八卦というが、おみくじの場合は何か心理的に強制力があるというか、おみくじのいうことは是が非でも執行されてしまう気がしている。
占い師という言わば生きた人間の出す結果より、得体の知れないこの小さな機械が吐き出す紙に書かれている結果の方が私に影響を及ぼす力があるとは、これも神社特有の霊験というものだろうか。それとも私が臆病なだけなのだろうか。
「引いてみますか」
「やったー!」
おみくじといい、朝の占いといい、日頃から『運』を扱う座敷童子という妖怪は、どうやら運試しが好きらしい。
引くぞー、と手をワキワキさせている座敷童子さんを見て、決してギャンブルには触れさせまい、と私は心の中で誓った。
見事「大吉」を引いて喜んでいる座敷童子さんの隣で、私は「吉」と書かれた薄い紙を眺めている。
「涼介さんは吉だったんですね」
「うん。僕は、そこそこだったよ」
おみくじの吉というのは、大中小で言うと……きっと、並くらいということだろう。
もっと分かりやすく松竹梅などで表せばいいのに、とも思ったが、松吉とか梅吉とか、途端に時代劇の香りが漂ってきたので、直ぐさま脳内で撤回した。
「吉は神社によって優劣が変わってきますから、ややこしいですよね」
「そうなの?」
「はい。大吉と中吉の間だったり、小吉の次だったり、色々です」
私の「吉」の内容はというもの、どの項目もぱっとしたことが書かれておらず、地味というか何というか、どことなく一点の蟠りを残す文章が並んでいた。
この「吉」は駄目な方かもしれない、と少し残念に思いながら、ちらりと恋愛運の欄を見る。
『待て。』
それだけ!?と、私は喉まで出かけた叫びを既の所で飲み込んだ。
飼い犬か、私は。知らぬ間に飼い馴らされてしまっていたというのか。
余りの衝撃に、直ぐ結ぼう、直ちに結ぼう、今結ぼうと、何かの標語のような文句を上の空で呟きながら、おみくじを結ぶ木を探す。
すると、御社の裏手に、見事な大木ではあるが、少し窶れているような一本杉が見えた。
「わぁ。大きいですねぇ」と、座敷童子さんが驚嘆の声を上げた。
ぐるりと御社を回りそこまで行ってみると、どうやら見えていた杉の木はこの神社の御神木だったようで、その幹の周りには注連縄が巻かれていた。
その傍らで、宮司の衣装を着た女性が御神木に向かって深く頭を下げていて、ここから微かに聞き取れる程の小さな声で泣いていた。
その女性は、私が近づくと気配を察したのか、はっと顔を上げ急いで涙を拭った。
平静を装ったまま再び御神木に一礼をするその所作は美しく、見るものを恐縮させるような、正しく神職に相応しい佇まいだった。
女性の涙と聞くと、私は、いつもあの出来事を思い出す。
あれはまだ、私が小学校に入学したての頃だった。
下校時間になり廊下に出ると、隣の教室に人だかりができていて、私も野次馬の一人としてその中を覗き込んでみると、ガキ大将が一人の女の子に罵声を浴びせ苛めている最中であった。
その女の子は目に涙をたたえつつも、決して泣くまいという毅然とした態度でガキ大将と対峙していた。
当時、幼くして女性の涙が持つ力について既に明るかった私は、この騒ぎを聞き教師が駆けつけたとしてもガキ大将はただ窘められるだけとなるが、もしその女の子が少しでも涙を流していたとすれば、ガキ大将が教師から激しい叱責を受けるだろうことを容易に推察できた。
そこで、普段から傍若無人の限りを尽くしているガキ大将に煮え湯を飲ましてやろうと画策し、私はその女の子に泣け泣けと煽動することにした。
つまり、私は狡賢かったのだ。
この作戦は覿面に功を奏し、私が煽り始めるや否や、その女の子はシクシクと潤んだ声をあげた。
周りの生徒達の視線は全てその女の子の涙に吸い込まれ、私はこれからガキ大将に与えられるであろう厳しい折檻を想像し愉快だった。
その後、間も無く教室に現れた学年主任の教師は、ガキ大将と私に容赦の無い拳骨を落した。
ぷかぷかと浮かれていた私の気分が、速やかに地へと引き戻されたことは言うまでもない。
その時、私は頭蓋に著しい衝撃を感じながら、魔女裁判の如き不条理と何か得体の知れない恐怖に、身を強ばらせたのだった。
それと同時に、幼いながらに女性の涙が持つ大いなる力を再認し、その底知れぬ魔性に戦慄を走らせ、それには迂闊に触れるべきではないと悟ったのだった。
当時の大津少年が神算鬼謀であると信じて疑わなかった煽動行為は、「傷害罪、傷害致死罪が行われるに当たり」ではないものの、刑法206条の現場助勢罪に近く、今から考えると我ながら稚拙な策を弄したものだと感慨を催さざるを得ない。
聞いた話によると、紳士という生き物は、「女性の涙」と耳にすると、どこかから等速直線運動で駆け寄ってくるのだそうだ。
妙な生き物もいたものである。
何でも、紳士には、女性の涙を拭う使命があるのだそうだ。
そんな中、私は平素から紳士に振舞うことを心掛けている。何なら、「紳士的」ではなく「紳士」であらねばならぬとさえ思っている節がある。もはや、一日中紳士と言ってよい。
つまり、演繹的に考えると、少なからず私も紳士の使命を有していると思われ、いくら私が女性の涙に含有されている魔性成分を知っていようとも、退いてはいけないことになる。
紳士ならば、泣いている女性のもとまで一定の速度で動く点Pと化し、その涙を拭わなくてはならない。
この宮司がどれだけ素敵な女性であろうとも、どちらかといえば私は凛さんの方がタイプだから大丈夫、などとうっかり思ってしまうと、やはり私は神社に相応しくない人間なのだと自らの業の深さを痛感する羽目になってしまい、私は妙な自己の再確認によって何だか居た堪れない気持ちになった。
もしこの神社に狛犬がいたら、余りの業の深さに、きっと私は頭から丸齧りにされているところだろう。
私は今、赤面しているかもしれない。
遠くで冬鳥が悲鳴に近い声を立てている。
すると、女性がこちらを振り返った。
「すいません。お恥ずかしいところをお見せしてしまいまして」と、まだ赤い目をしたその女性は、私に向かって言った。これが魔性か、その潤んだ瞳には蟲惑と官能の混和が見られた。
私は、身体が急に緊張してきたことに気が付いた。
何があったんですか、などと踏み込むのは不躾だろうか。むしろ、何のことでしょう、と見ていない振りをした方が良いのだろうか。
色々と思案した結果、私は、「いえ」と、一言だけ返事をした。
少しの沈黙の後、「御神木の調子が余り良くないんです」と、御神木を見上げながら女性が言った。
健康だった時の姿を私は知らないので判断することが難しいが、確か杉の木は本来冬でも葉を残す常緑樹の筈なのに、この御神木は大木と雖も、どこか物寂しい感じがした。
「二年程前に前宮司が急死して、私がその後を継いだんですが、継いだ途端に御神木の調子が悪くなり始めてしまって。分からないなりに色々介抱して、今まで何とかやってきたんですけど。……きっと私が駄目な所為だと、この御神木を見るたびに思うんです」
そんな不思議なことも神社なら起こり得るのかもしれない、と私はその話を聞いて思ったが、伏し目がちな女性の色香と少し芝居染みた言い方に引き摺られ、「それは宮司さんの所為じゃないですよ、きっと」と、無意識の内に励ましていた。
考えてみると、女性の神職が近頃増えてきているとは知っていたものの、私は実際にそれを目の当たりにしたことが無かった。
「そういえば少し前に、日本各地の御神木が立ち枯れしているというニュースを見たことがあります」と、座敷童子さんがぽつりと言った。
どうやらその声は、例の如く、この場では私以外には聞こえなかったらしく、宮司の女性は御神木から目を離さないでいる。
その時――
冷たい風が、御神木を強く揺らした。
余り長居をしてはいけない気になり、「今日はそろそろ、失礼させて頂きます」と、私はこの場を辞することにした。
少し進んだ所から振り替えると、近くからは気が付かなかったが、御神木の頂上付近の枝に小人のような妖怪らしきものが一匹、悲しそうな表情で女を見下ろしているのが分かった。
「宮司さんが御神木を大切にする限り、あそこにいる木霊さんがきっと御神木を守ってくれる筈です」
「あのちっこいの? 木霊っていうんだね。けど、宮司さんには木霊が見えてないみたい」
「宮司さんは宿主じゃないみたいです。きっとあの子、御神木を宿主としているんです」
「御神木を?」
確か付喪神とか言ったか、物自体が妖怪となり得るということは、小さい頃に聞いたことがあった。ただ、あんな大木、しかも神社の御神木という神聖な対象に妖怪が憑くという事実に、私は驚きを隠せなかった。
「大切にされている木に憑くみたいです。悪さもしないですし、ちょっとした木の精霊みたいな存在なのです」
「それなら安心だね。きっとあの宮司さんは上手くやっていけますよ」
そう口に出したものの、先程の木霊の悲しそうな表情を思い出して、私は少し胸騒ぎがした。
帰りの道すがら、これから神社へ向かうだろう老婆と擦れ違ったので、足を止め挨拶をする。
「こんにちは」
「あらあら、こんにちは。こんなところに若い人がいるよ」
老婆も矍鑠たる足腰をその場で休ませ、ぐぐっと伸びをしたかと思えば、一つ深呼吸をした後、にやりと笑った。
「ご参拝ですか?」と、私が問う。
すると老婆は、「宮司には会ったのかい?」と、私の質問をまるっきり打ち消すように言った。
「え、あぁ、はい。会いました」
「参拝客は老人ばっかりで、どんどん減る一方だったけど、あの娘の健気さ目当てに最近は参拝客が増えてるような気がするよ。あんたもその一人かい?」
「いえ、私はたまたま、そこの墓地に墓参りに来たついでに」
「はぁ、そうかい。けどあの娘、地元紙にも取り上げられたりしたんだよ。御神木が弱っちゃったけど、あの娘の必死の介抱で治りつつあるって。凄いねぇ。まぁ、あの娘はよくやってるよ。自分には荷が重いと思っているそうだけど」
「そうだったんですか」
「まぁあの娘も神職とはいえ、美人な娘だからね。あんたも熱をあげないように気を付けなよ」
早口にそう言うと、再びにやりと不敵な笑みを見せて、老婆は神社へ続く石段を登って行った。