第一話 幸せは煙のように <前編>
前編
可燃ごみの袋を集積所に放り込むと、登校中の小学生の声が寝起きの頭に響いた。
蒸し暑かった夏も漸く終わり、ひやりとした空気がサンダルの中の素足を撫でている。そろそろ金木犀の香りでもしてくる頃だろうか。
目の前に聳える十五階建てマンションの傍らには様々な植物が植えられていて、季節ごとに花を咲かせる。今は得体の知れない不気味な植物が、花もつけず、ただ青々と力強く伸びているのが見える。
私、大津涼介は、このマンションの最上階の一室に一人で住んでいる。
とある大学の法学部を卒業した時には、既に係累は絶え、少しの遺産と僅かな不動産賃料で糊口を凌ぎ、ここ数年無為徒食の生活をしている。しかし、比較的無欲な性質で、金のかかる趣味なども持ち合わせていないので、なんとかやっていけている。
ペタペタと音を立てながら階段を上る薄手のスウェット姿の横を、バタバタと忙しないスーツ姿がすり抜けた。
同時に、普段運動らしい運動をしていない、私の息切れ気味の口から、「おは……っす」と空気が漏れたが、挨拶の対象は、既に遥か階下だった。
挨拶を返されるよりも何故か恥ずかしい気持ちになり、エレベーターではなく、久し振りに体を動かそうと一念発起した気持ちが萎えそうになる。
生来病弱な方ではなく、どこまでも健やかに育ってきたつもりではあるが、身丈の割に痩せぎすな私は、朝が弱い。
未だに覚醒しきれていない頭のまま、辛気臭い足取りで階段を上り続けていると、反時計回りに揺さ振られ過ぎた私の三半規管が音を上げ始めた。
気付けば、限界が近いふくらはぎと股関節からも悲鳴があがっている。
安酒の酩酊に似た感覚に苛まれている私の脳内では、悪魔がエレベーターの利用を唆し続けており、一方で、どういう訳か、天使が高山病の心配は不要と毒にも薬にもならない御告げを寄越している。
もう自分が何階にいるのか、分からなくなって久しい。
遂には、「ふくらはぎとは何ぞや?」という禅問答まで頭の中で開催される始末である。
精神的にも肉体的にも、自分以外の何者かに私という存在が操られているようにも思えてくる。もはや意識不明と言っていい。
――風だ。
ふくらはぎに内在する真理を悟ろうと必死だった私は、吹きつける涼やかな風によって、漸く登頂の達成を知覚することができた。
前後不覚の千鳥足で自宅の1505号室の前に立ち、独り暮らしにもかかわらずインターホンを鳴らす。
そして、鍵の掛かってない扉を開け、息も切れ切れに、「ただいま……」と、弱々しく呟く。
「お帰りなさい!」
そこには深い紅色の小袖を着た黒髪の少女が微笑んでいて、やはり日頃から運動はすべきである、と目の前の幻覚を眺めながら、私は思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「憲法、民法、刑法……難しそうな本が沢山あります」
スライスチーズを乗せたトーストと、湯気を立てているコーヒーに、未だ手をつけられていない私の向こうで、おかっぱ頭の少女が、本棚の前を行ったり来たりしている。
――初めまして、私は座敷童子と言います。
あの時、確かに少女はそう名乗った。
冷静になって考えると甚だ信じられない話だが、その発言を聞いたとき、私は全くそれどころではなかったことだけを何となく覚えている。
まずは、裏返る声で部屋を間違えたことへの謝罪を叫びながら、玄関を飛び出した。
そこで、自分の氏名が書き記された1505号室の表札を確認するや否や、”未成年者略取及び誘拐罪”の『三月以上七年以下の懲役に処する』という、げに恐ろしい刑法の条文がパニック状態の頭に浮かんできた。
「これは夢だ……いや、これは夢であってくれ!」と、私は神仏に祈りながら玄関の扉を開き、生憎祈りは届かず、再びこの座敷童子とやらと相見えることとなったのである。
「わぁ! こんなに大きな辞典、初めて見ました!」と、少女が目を丸くしながらこちらを見つめている。
「それは判例六法っていうんだよ。重くてまだ君には持てないかもね、ハハハ」と、私はそれに対して最高の笑顔で応じる。
ハハハじゃないだろう、私よ。
今は冷静なって考える時だ。呑気にブレイクファストなんて認めている場合じゃないだろう、私よ。
「お家の人は……?」と、私は恐る恐る聞いてみる。
「私は長い間、暗いところに独りぼっちでした。でも、急に光が見えたと思ったらここにいて……きっと私は宿主の方を見つけられたのだと思います」
小学校低学年くらいだろうか、くりくりと可愛らしい目をした幼い顔つきの少女は、本棚から取り出した判例六法を両手で大事そうに抱えながら、優しく微笑んでいる。
持てたのかという驚きや宿主という些か穏やかでないワードの所為ではなく、未だかつて判例六法を抱えながらこれだけ幸せそうな笑顔を浮かべた者があっただろうかという追懐の所為でもなく、ただ少女の足がフローリングについておらず、ほんの少しだけふわふわと宙に浮いている現象を目にして、「君は……化け物なのかい?」と、静かに尋ねた。
「化け物ではありません! 座敷童子です!」
座敷童子と名乗る彼女は、強くそう答えながら私の座っている椅子の隣にふわりと腰掛け、判例六法を固いケースから取り出した。
――やばい、怒らせてしまった。
そのまま判例六法の角で殴打されるのではと思い、私は頭部を守るようにして身構えていたが、そんな人の気も知らず、座敷童子さんは、判例六法の極限まで薄く作られたページの一枚一枚をペラペラと捲りながら、「なるほど、ちっとも分かりません!」などと、隣で楽しそうに呟いている。
「その……宿主というのは、どういうこと?」
「私もよく分からないのですが、これから一緒に生活をします」
「誰とですか?」
「あなたとです!」
それが若干命令染みた言い方だったので、はぁそうですか私とですかと納得しかかるが、まだ聞きたいことが山のようにある。しかし、この少女自身がよく分かっていないそうなので、もはや為す術無しといえる。
「前の宿主の方は?」
「それが覚えていないのです。確かにどなたかと生活していたことは思い出せるのですが、いつ、どこで、どんな方と生活をしていたのか、全く思い出せないのです」
前の宿主との記憶はほとんど失われてしまっているらしい。どれだけの期間を一緒に過ごしていたのかは分からないが、なんだか少し可哀想に思う。
そんな座敷童子さんは、判例六法を捲り終え、主な法令の略称が書かれている最後の見開きに黒のマーカーで書き込まれた私の名前を見つけたようで、ふむふむと一人で納得したような声を漏らしている。
「と、取り敢えず、一緒に朝ごはん食べる?」
「はい、涼介さん!」
こうして私と座敷童子さんの生活が唐突に始まったのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
テーブルの上のすっかり冷めきったコーヒーの隣で、判例六法の中の民法の項目を、おかっぱ頭と短髪が覗き込んでいる。
「ここの消費貸借というのが、私に似ているのですね」と、座敷童子さんが、私のお気に入りの板チョコの欠片を頬張りながら言う。
というのも、いつか聞いた座敷童子の昔話を思い出したので、座敷童子は宿主を幸せにするというのは本当か尋ねてみたのだ。
すると、座敷童子という存在は、食物を無理に摂取しなくても活動できるのだが、生命エネルギーとして――座敷童子が生物かどうかは別として、宿主の「幸運」を一時的に借り、その代わりに同じくらいの幸運を宿主に齎すので、そう誤解される場合も多い、という私の期待を完全に裏切る形の回答があり、そこで私がまるで消費貸借みたいだなと呟くと、座敷童子さんがその呟きに喰いついてきたのだった。
「うん、もし貸した分の宿主の幸運と同じ量の幸運を返してくれるなら消費貸借に近いかもね」
「はい。基本的にはお借りした分の幸運をお返ししています」
――(法律パート)――
消費貸借(民法587条)とは、借主が借りた物と「種類、品質及び数量の同じ物」を返すことを約して貸主から金銭その他の物を受け取ることにより成立する契約だ。
例えば、一般的なお金の貸し借りなどはこの契約(金銭消費貸借契約)といえる。
ちなみに民法典に規定された十三種類ある契約の中で貸借型の契約は三種類ある。
細かいところを廃してざっくりと言うと、物を無償で引き渡して借主が使用・収益した後その物自体を返せば良い使用貸借、物を有償で借主に使用・収益させることを約することによって成立する賃貸借そして前述の消費貸借の三種類だ。
原則として、賃貸借は合意が成立した時点で契約成立となるが、使用貸借と消費貸借は契約の合意後、物を引き渡した時点で契約成立となる違いがある。
つまり、私と座敷童子さんとの関係が仮に消費貸借契約だったとすれば、契約の成立時は私から「幸運」が吸い出された時点ということになり、私を含めた人間一般にとって、契約の締結日がいつなのか全く判然としない不親切なものとなってしまう。
ただでさえ幸せは煙のように曖昧で、そこらに漂っていたり、かと思えば風に攫われてしまったりするものなのに。
また、この消費貸借という契約は、借主が支払う利息の有無(有償契約であるか無償契約であるか)によってその性質が少し違ってくるのだが、今回の場合、利息の支払いの有無も何も、お気に入りのチョコレートをパクパクと喰らわれている分、貸主たる私が完全に損をしているので、以上の点から鑑みても私と座敷童子さんの関係は消費貸借とは異なる。
しかも、大前提として、そもそもこの関係は「契約」関係であるのかが疑わしい。余りに唐突な話で、当事者間の合意も何もあったもんじゃない。
「まぁ、そんな美味い話は無いですよね」
――――――――――
一方的に幸運を抜き出されるだけの被減数にならなかっただけ、まだ私は良かった方なのかもしれない。
私は、冷めきったコーヒーを勢いよく飲み下した。
「けど、悪い妖怪からは涼介さんをお守りできますよ!」と、座敷童子さんが自信満々に言った。
悪い妖怪がこの世に存在していることを聞かされたからといって、私の心境は何ら変化しない。
何故なら、私は平素日光に直射される生活をしておらず、日がなパソコンを使って趣味の読書と音楽鑑賞を嗜み、食物などは専ら通信販売に依存しており、世間と比べて妖怪の類に出くわす余地がほとんど無いからだ。
偶に自宅に遊びに来る仲の良い友人からは、余りの隠居ぶりに、もはや仙人のようだ揶揄される始末で、痩せ型の体質もあってか愈々霞でも喰い始めたかと本気で心配されたことさえある。
大家の仕事といっても経理や稀に電話で少々話をする程度で、外出する予定があるといえば朝のゴミ出しくらい……。そこまで考えたところで、私は座敷童子さんとの出会いを思い出す。
「あの……、悪い妖怪っていうのは、向こうからやって来るの?」
「妖怪によって様々ですけど、宿主を探して向こうからやって来る場合も多いと聞きます」と、座敷童子さんは、椅子の上で足をぶらぶらさせながら答えた。
そして、「私は悪い妖怪ではないですけどね!」と、私の考えを見透かすように、再度自信満々に言うのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
きちんと整頓された洗面台の鏡には、水垢の一つも付着していない。
神経質という訳ではなく、先日拭き掃除をしたばかりだからだ。また、整頓されたとは言ったものの、物が極端に少ないだけなのかもしれない。
「鏡にはちゃんと映るんだね」と、歯ブラシを啣えながら座敷童子さんに話しかける。
「はい、でも他の方には私の姿は見えないのです」
「僕以外には見えないってこと?」
「いえ、正確に言うと妖怪の宿主や極一部の限られた方以外には見えないのです」
ということは、私は他の妖怪の姿も見えてしまうということになるのか。知らぬ間に、誠に不本意ながら、見事に私も霊能者の仲間入りを果たしてしまったのかもしれない。
ただ、現状をしても未だに妖怪の存在について納得しきれていない自分がいる。
もうそれは脳のキャパシティを優にオーバーしていて、心で納得しようとしても、脳が潔しとしない。
「その、他の妖怪の宿主っていうのは、結構いるの?」
「そんなに多くないと思います。ただ、自分の宿主にも姿を見せない悪い妖怪もいるみたいで、知らず知らずの内に妖怪の宿主となっている方も少なからずいるそうです」
――取り憑かれるというやつか。恐ろしい話だ。
妖怪の良し悪しにかかわらず、これ以上の理解の範疇を超えた出会いは、刺激の乏しい生活を続けてきた私にとってメンタル面への負担が強過ぎる。想像をするだけで心労が凄い。できればそんな出会いは今後一切遠慮させて頂きたいものだ。
しかし、そんな私の希望は、ものの数時間で、易々と打ち砕かれてしまうのだった。