5曲目.『Venus say…』(2004)
「…………」
「……」
108号室には、カラオケモニター上で新曲紹介をしているよく分からないバンドの兄ちゃんの、少し甲高い声だけが響いていた。
個室には男女が一組。ただし、カップルにあらず。一と、108号室を覗いていたと思われるヘッドホン少女だ。
『君、いつも107号室使ってるよね。なんで、僕のことを見てたの?』
と書いたメモ書きを見せてから、ヘッドホン少女は何も話さない。さっきの頭ゴッツンコの後みたいに逃げたりはしないが、切れ長の目を伏し目がちにしたまま、何も言わない。
何も言わないで108号室の前で立っているので、一は、普段遣わない気を総動員する。またメモに走り書きをして、少女に見せてみる。
『とりあえず、座らない?』
なんで自分がこのよく分からない子に気を遣っているのか、一自身もよく分からなかったが、このままだと何も進まない。
そして、30分後の今に至る。カラオケ道場!!の入り口前には喫煙台とタバコを吸う人のための数人用のベンチが置いてあり、そこで話しても良かったのだが、人に見られながら話をするのもなんだか気恥ずかしく、結局一は自分のいた108号室に少女を迎え入れることになってしまった。
「……………………」
「…………」
何だかさっきよりも…の数が増えた気がする。
一応さっきから、
『何か飲む?』
と気を利かせて(勿論メモ帳に書いて)聞いてみるのだが、少女はだんまりを決めている。
そもそも、一は知らない女の子とどう話したらいいのか、よく分からない。
新曲紹介のPVは、とある有名アイドルの最近リリースされたばかりの新曲紹介に場面が移り、この頃はすっかりテレビでお馴染みの可愛らしさ満点のダンスと、世の男性に夢を見せる甘ったるい歌が、画面一杯に展開されている。
一方で少年と少女の二人の間には、相変わらず痛いほどの沈黙が横たわっていた。
ど、どうしよう…。とりあえず座ってはもらえたけど…。
とりあえず個室に入ってもらったはいいがこの後どうすればいいか、一は全くノーアイディアだ。
さっきまで怖がっていた相手と、狭い個室で、しかも一対一で座っている。
少女を見ると、伏し目がちで首に掛けていたヘッドホンをいつの間にか頭に付けていた。
「………………………………」
「……………………」
「…………………………………………………………」
「…………………………………………」
このままではいたずらに…が増えていく一方だ。
コーラのコップの周囲は、水滴で水浸しになっている。せっかく持ってきたアイスクリームも、完全に溶けてジュースの様になってしまった。
手持ち無沙汰の一は、端末にあったカラオケの検索端末を手にしてみる。
右横に座っていたヘッドホン少女が、急に一が動いたからか、また体をビクッとさせる。
やっぱり、怖がってるな…。
端末のキーワード検索で、アニメタイトルを眺めながら、一は横にいる少女の様子をうかがう。
頭に付けているヘッドホンは、小さな少女の頭に比して大きく、アンバランスな印象を持たせる。よほどの音楽好きなのか、それとも一の話を聞くつもりはないという、自分に対する拒否の表れなのかは分からない。
少女は背もたれに背を預けず、ピシッとした姿勢で微動だにしない。少女は自分の学生カバンとプレートを、一と自分の間に置き、しっかり一人分の距離を取っている。そのカバンには少女の左手がしっかりと置かれており、いつでも逃げ出せる態勢を取っているようだ。
別に何かしようってわけじゃないんだけどな…。
とにかく、ヘッドホン少女に非常に警戒されているようだった。若い女性を狭い空間に誘い込んで襲ったりする事件の報道も最近は多い。ほとんど見知らぬ男に部屋に連れ込まれたら、警戒するのは無理もないのかもしれない。
話をしてもらうのは無理か…変に怪しまれる前に、もうのぞかないでくれるよう頼んだら帰ってもらおう…と思って胸に入れたメモ帳に手を伸ばそうとした矢先、
ピピッ!
という音がなる。
一はそれまで何となく見ていたカラオケの送信端末から、間違って曲を送信してしまった。
「…………!汗」
無性に焦る一。ヘッドホン少女の方を見ると、カラオケ機器に曲が送られたのを見て驚いてまたビクッとしたが、動かない。
曲名とイントロが流れ出すと、一は慌てて端末から「演奏中止」のボタンを押そうとする。こんな時に歌える訳がない。
すると、一の右横から、マイクがずいっと差し出される。
視界の中に突然マイクを出され、ビクリとした一が横を見てみると、くだんのヘッドホン少女が、なぜか目をキラキラさせながら、一の口元にマイクを差し出している。
「…歌ってくれるの!?」
一言だけこう言った少女は、あの大きなヘッドホンを付けたままそう言った。
な、なんだこの子…。
透き通るような不思議な声だ。一は以前、現代文の教科書か何かで、女性の声を「鈴の鳴るような声」と表現しているのを見たことがある。まさにそんな感じだ。それでいてどこか普通の女の子の高いキーの声色とはまた違う低さがあって、どこか色気を感じさせる。
一は、自分の声に自信が無い。だから、普段は親しい人以外の前では極力声を出さないようにしている。そのためなのか、他の人の声にも敏感だ。無意識の内に、人の声を注意して聞いている。
この子の声、なんかこう…いい声だな。
一がそんなことを考えながらぼんやりしている間も、ヘッドホン少女は相変わらず輝く眼差しで、彼にマイクをぐいぐい差し出してくる。ほとんど突き刺してくるような勢いでマイクを向けてくる。
首を振って断るそぶりを見せても、少女は諦めようとしない。より一層その目を輝かせて一を見つめてくる。
一はヘッドホン少女の様子をうかがう。
見れば見るほど、目の覚めるような美少女だ。その美少女は、白く丸みを帯びた頬を少し紅潮させて、かなり興奮気味のようだ。さっきまで黙り込んでいたのがうそのように表情も生き生きし、一点に一のことを見つめてくる。
ヘッドホン少女の澄んだエメラルド色の瞳は、個室の照明の灯りが映ってまるで星のようにきらめいている。その瞳には、少女の見つめる一自身が小さく映っていて、まるで自分が少女の瞳の中にある星々の世界に吸い込まれ、入りこんでしまったように見える。彼女の輝く瞳の中は小さな宇宙のようで、宇宙にきらめく星々が、そこに迷い込んだ自分に「歌って歌って!」と迫ってきているようだ。
照明の光が瞳に反射してるだけ…。そんな、星だなんて…。何をこっぱずかしいこと考えてるんだ僕は…。
頭の片隅でこんな冷めたことを考えているのに、一の体は言うことを聞かない。
ヘッドホン少女の、星の住む瞳に誘われるように、一の手はひとりでにマイクを受け取り、口は勝手に歌い始めてしまった。
弱き旅人よ 引き返すがいい 倒れてしまう前に
それでも お前は行くと言うのか 遠い空の向こうまで
幾千の旅人が 私に祈る時は
無謀にも旅路に倒れた後なの
ここじゃないどこかには
今じゃない いつかには
お前が探してる愛があるというの
私が与えた 運命のもとで
おとなしくしてればいいのに
Do you know? I'm a Venus
弱き旅人よ 近づいておいで 私のひざもとまで
抱きしめてあげよう 見せてあげよう 遠い空の その先を
What you wanna go? I will make it happen
これはアニメのOP用に作られた比較的短めの楽曲だ。最近一はこのアニメにはまっ「すっごーーーーーい!!!」
一の脳内アニソン解説は突如、ヘッドホン少女の大きな声に中断させられた。
「うまーーーい!!本人が歌ってるみたい!!これ、10年以上前のアニメのOPですよね!わたし、子どものころ再放送で見てからずっとファンで!宇宙を目指してる女の子と、同じように宇宙を目指してる同級生の子たちみんな、過去に色々あって心のどこかに言えない葛藤があって…それにロケット事故で悲惨な目に遭った人の冷たい目とか、大人たちの陰湿ないじめがあっても、それでもがんばって宇宙の夢を負けずにひたすら追い続けるところとか、ほんとうに泣けてきちゃって…。周りの大人たちも、みんなそれぞれ夢と現実の狭間で苦しんで、苦しみ抜いてるところもなんだかすごく描写が生々しくて…。中には夢半ばでロケット事故で死んじゃって幽霊になっても、それでも同じ夢に向かっていこうとする主人公を見守る人もいて…。目指すのが難しい宇宙と、そこに命がけで向かっていく人たちの姿を通じて、夢を見ることって、きれいごとじゃないんだ、それでも夢を見続けるって、一体どういうことなんだってことを、やさしいタッチですごくシリアスに描いてるから、こう、心にグサッとくるんですよね!OPも、原曲からアニメ用に歌詞が変わってますけど、どっちが好きですか?わたしは、こっちのOPの方が好きです!だって、この曲には希望が感じられるから!どれだけ旅が大変でも、道半ばでたおれた人たちがいても、それでも立ち向かっていこうとする人は、その先を見られるかもしれないって………あ」
ヘッドホン少女は、いつの間にかヘッドホンを首に掛けていた。少女は先ほどよりも更にずいっと体を乗り出して一に迫ってきていた。
それにしても、ものすごいマシンガントークだ。一は完全に圧倒されてしまった。ところどころ説明口調みたいになってて少し変な感じもしたが、それにしても綺麗な声だ。
この子、かなりのアニメとアニソン好きだ。さっきまで警戒していた相手の前でアニソン愛を語り出してしまうところから、相当重症と見える。
「…………」
「…………アニメとかアニソンとか……好きなんだ…」
思わず、一は心の声を漏らしてしまった。
「っっ!!」
一の言葉に、少女の顔は一気に真っ赤になった。少し丸みのある白い肌が一気に紅く染まり、りんごみたいだ。さっきから星が出てきたりりんごになってみたりと、反応のバリエーションが豊富だ。
それに、こう、ちょっと、なんだか…
「…………かわいい」
またも一は心の声を漏らしてしまった。
「っっっっ!!!!」
ぼんっという音がしたような気がした。ヘッドホン少女は、りんご色になった頭をうつむかせて、小さくなってしまった。かなりのアニソンヲタなのはどうやら間違いないようだ。
少女は、りんご頭にヘッドホンを装着し、バッグと個室番号の書かれたプレートを持ってばっと勢いよく立ち上がると、そのまま部屋を出ていってしまった。
たったったっ……。
廊下を小走りする少女の足音を聞きながら、とり残された一はひとり呆然としていた。
結局、ヘッドホン少女には自分からは何も聞けなかった。しかも、初対面の子に対してなんだかすごいことを言ってしまった気もする。
基本的に、親しくない人とは極力話さないようにしている一にとって、今日は異例づくめだ。
それにしても…。
一が人前で歌うのは、かなり久しぶりだった。中学の合唱祭でさえあまりの歌いたくなさからボイコットした自分が、初めて出会った少女の前でアニソンを披露してしまった。しかもかなり熱唱してしまった。そして何より…
「………はじめて…歌…褒められた…な…」
自分の歌声が、うまれて初めて人に褒められた。一は、なんだか胸の奥のどこかが、無性にむずがゆくなった。
一は108号室でまたひとりつぶやいた。
「………あのヘッドホンの子…また…来るかな…」
謎のヘッドホン少女は、リアクションデパートのアニソンヲタだった!!