2曲目.『虹色の砂時計』(2001)
今日は大雨だ。土砂降りの雨が街に徹底的に打ちつけ、道を歩く人達は、傘を身体に引き寄せながらどこかに消えていく。いつもの夏の暑さは影を潜め、肌寒さが街全体を包んでいた。
夕方になって冷気が寒さに感じられてくる頃、雨から逃れるようにしていつものカラオケ店のアーケードに避難してきた一は、ビニール傘を閉じて水飛沫を飛ばして傘立てに押し込むと、雨でぐっしょり濡れたカバンを肩から手に持ち替えて店内に入った。
駅前から店まで急いで走ってきたせいか、全身に雨粒をくらい、店内の冷房と相まって体にこたえる。
カウンターでいつもの2時間コースで部屋を取ろうとすると、今日はいつも利用している108号室が空いていないとのことだった。どうやら一が店に来る約10分前に、雨宿りの女子高生客によって、先に部屋を確保されてしまったらしい。聞いたわけではないのだが店番をしていたおばちゃんがそう教えてくれた。一は、曖昧な相槌をうちながら、自分が店側に「108号室の客」という風に認識されていることに気づいて、少し恥ずかしく感じた。
一の通うカラオケ道場!!は、入るとまず右手にカウンターがあり、カウンターのすぐ奥にドリンクサーバーがある。更にその奥には廊下が延びており、客室となる個室が廊下の両側に続いている。廊下左側は手前から101号室から始まり、一のよく利用する108号室で終わる。右側は109号室から始まり、108号室の手前で廊下が右側に折れ、折れた廊下の先にも廊下の個室が並び、奥に大人数専用の部屋である120号室に続く。店は1階部分のみで、カラオケ店としてはかなりこじんまりとしている。
108号室は、端に位置している為、隣の部屋以外には気を遣うこともない。隣室である107号室は、一が来る時は基本的に歌声が聞こえたことが無い。カラオケなのに歌を歌わないのだろうか、と思いながら、
静かに越したことはないだろう。
と考えていた。一にとって、他人の声はどこかストレスに感じるものなのだ。唯一の隣室に対する安心感もあって、一は108号室ではとりわけ思い切り歌うことが出来た。
一は個室番号と料金の書かれた伝票を貼り付けたプレートにマイクの入ったカゴとマグカップをもらう。今日の個室は105号室だ。いつもの108号室と違い、両側を別の個室に挟まれることになる。
一はいつも通り、ドリンクサーバーでホットココアを入れ、入れたその場で一口飲む。いつもは喉を暖めるために飲むココアが、今日は身体中に染み渡る。
サーバーの前でココアに口をつけながら、一はふと、奥へ続く廊下に並ぶ個室に、何となく視線を移した。今日はいつもよりも更に賑やかなようだ。
それぞれの個室から、思い思いの曲とそれをたどる歌声、紛れて同伴者の陽気な声が聞こえてくる。雨宿りで生まれた暇を、カラオケで歌いながら潰している人達だろう。
人の歌う声を聞くと、一の体は少し強張ってしまう。
人前で喋ることが少ない一は、人の発する声に対してもどこか苦手意識がある。他人と会話することを極力避けている一にとって、人の声というのは、自分に対してプレッシャーを与える異物なのだ。
ずっとドリンクサーバーの前に立っていると迷惑だろうと考え、一は105号室に入り、いつも通り宿題の処理作業に入る。
今日の個室は、両隣が個室に挟まれている。どこか、電車で長い座席で真ん中近くに座る時のような、心もとなさを感じる。その上、壁が薄いからか、双方の壁の向こう側からは賑やかな歌声が漏れ聞えてくる。
一はいつもと違う環境に、どこかやりづらさを感じた。そして普段、108号室で歌っている時に隣の107号室がいつも静かなのに、改めて気付かされた。
107号室って、誰がいるんだろうか?カラオケで歌ってないのか…。
一にとって、今までほとんど気にも留めていなかった静かな隣室は、歌を歌うカラオケボックスの個室としては、不自然なのだ。
いつもと違いお隣が騒々しい個室の中で、古典の動詞活用の宿題用プリントを機械的にやっつけながら、一は、今日はお隣さんではない107号室にほんの少しだけ思いを馳せた。
カラオケで歌わないなんて、107号室って、誰が使ってるんだろう。……まあ、どうでもいいか。
大方、サラリーマンか学生が仮眠のために107号室を占拠して爆睡してるとかだろ、と頭の中で一応結論づけた一は、ほとんど作業的にこなした宿題をさっさと片付けると、楽曲検索の端末を手にする。
今日は走って雨に濡れたし、色々余計なことも考えて少し疲れたから、安らげる曲から始めよう。
そう考えた一は、カラオケ機器に向かって曲を送信し、マイクのスイッチを入れた。
髪を躍らせて 心はためかせて
あなたはかけてく まだ見ぬ愛へ
生きる悲しみも 今は追いつけない
そんないのちの 輝きがまぶしい
お願い 急がないで
お願い ゆるやかに夢を紡いで
草の海のにおい ミツバチのハミング
空や風と 友だちでいて
はずかしがり屋の しあわせが逃げても
また指にとまる チョウチョみたいに
あなたを待ってる はじめてのキスには
素足が似合うわ ガラスの靴よりも
お願い 急がないで
お願い ゆるやかに恋に恋して
あなたのその瞳 心の砂時計
涙さえも 虹の色なの
子供だったこと 忘れない少女は
愛されるきっと やさしい人に
さようならよりも 出会いが多い日々
たいせつにして おもいでの花びら
お願い 急がないで
お願い ゆるやかに大人になって
夕映えのキャンバスに 明日を描くあなた
それは遠い夏の 私よ
曲調は一貫して穏やかに。子どもに対して語りかけるようにして。年端もいかない幼い子どもに、急がずゆっくりと、今ある掛け替えのない日々を大切にしながら過ごしていって欲しいという思いが歌詞に込められているようだ。
この曲も、とあるアニメのOPだ。優しさと根性に満ち溢れた一人の少女が、妖怪でも神様でもない不思議な住人たちとの共同生活を通じて、一風変わった住人たちとふれあう中で時には衝突したり、涙を流したりしながらも、そんな変で温かみのある周囲の人々(?)によって見守られながら成長していく日々を、時にコミカルながら穏やかでタッチで描く隠れた名作だ。
カラオケのいい所は、普段は耳にする機会の少ない、アニソンの2、3番の歌詞を、自らの声でたどれることではないだろうか。
この曲は、1番だけ聞くとまるでおばあちゃんが孫に語りかけているように聞こえ、一見アニメに登場する桜の貴婦人が、主人公の少女を優しく見守るさまを歌っているように聞こえる。だが、3番まで聞いてみると、年を取った女性が、過去の子どもだった自分に向かって、優しく温かだった周りの人々との出会いに溢れた日々を、どうか急がないで大切に過ごして…という、もう戻ることのない過去への追憶、という一種の切なさと寂寥感が込められていることが判明する。
穏やかで優 しく、そしてどこかに寂しささえも漂わせる曲は、いたいけな少女の成長を描くアニメの世界に、また別の見方と奥行きを持たせてくれるようだ。
一は穏やかな曲調に包まれながら、徐々にアニソンの世界に浸って、没入していった。
雨で冷えた体が徐々に温まっていくと、曲が始まる直前までは頭の片隅にあった無音の107号室のことも、歌い終わる頃には、綺麗に忘れていた。
こんな感じで、主人公にはアニソンをどんどん歌ってもらい、魅力を語ってもらう予定です。歌詞は載せますが、今後消すかもしれません。