1曲目.『Butter-Fly』(1999)
……授業、おわったか。
長い6時間目の終了を告げる鐘とともに、机に突っ伏していた一は、伸びた前髪を指で掻き分けながら野暮ったく目を開けた。
午後3時、下校時間になると、一の脳みそはようやく本格的に動き始める。学生カバンに宿題が出た英語のプリントと二、三冊の教科書だけ放り込んで、素早く教室から出た。ダラダラ歩きながらも、校門を出る頃には、さっきまで寝入っていた身体もシャッキリし、校門を一歩出るとようやく息ができるとばかりに伸びをする。身体中がビキビキする。一は両腕を天に向かってうんと延ばし、身体全体を使って大きく呼吸する。
毎日30度を超える猛暑日の空気も、学校にいる間は寝ているのか起きてるのかよく分からない状態で無気力に授業を受けている一の脳みそには、沁み渡るように気持ちがいい。今日は月末だからバイト代も出ていて財布にも余裕がある。
よーし、今日も行くか。
深呼吸で頭をリフレッシュさせた一は、猛暑の中、帰宅途中の生徒が熱気で霞んで見える通学路を、ペットボトルのお茶片手にのらりくらりと歩き始めた。一は歩きながら、最近バイト代を貯めて買った音楽プレーヤーを取り出し、お気に入りのアニソンメドレーを再生する。今日はどれを練習しようかなー、と考えつつランダム再生して聞くのが、ここ最近の下校時の日課だ。「あそこ」に行く時はなおさらこの時間を大切にしている。耳で聴いて練習するためだ。あんまり音が大きすぎると気持ちが悪くなるので、音量に注意しつつ、6月末の籠るような暑さの中、アニソンの世界に浸りながら、一はゆったりと駅に向かって行った。
「いらっしゃい。2時間でいいかい?」
一が店に入るなり、店主の奥さんのおばちゃんが、ニコニコしながら訊いてくる。
通っている高校の最寄りの駅前商店街を抜けて少しの所、駐輪場前の前にあるカラオケ店「カラオケ道場!!」。2時間パックであれば高校生の財布にもすこぶる優しい料金体系のこのカラオケ店は、お金の無い近隣の高校生にとってまさに放課後のオアシス。一にとっても、高校から比較的近場にもかかわらず同じ高校の生徒が滅多に来ないため、そこまで気を遣わなくて済む。しかも、利用時間関係なくドリンクバー付きで、冷たい飲み物だけでなく、お腹に優しいホットドリンクも多数揃えている。近頃の不摂生でお腹をしょっちゅう壊している一にとっても、中学以来の放課後スポットだった。更にここは、今時少し珍しい個人経営のカラオケ店。気難しい顔をした背の大きなガッチリした体のおじちゃんと、気のいい優し気なおばちゃんの夫婦で経営されており、素行の悪い客は追っ払っていることも、一にとっては好都合だった。
「………はい」
当初はメニュー表で時間の欄を指差すだけでかたくなに話そうとしなかった一も、最近ようやく小さく声を出してカラオケ店のおばちゃんに返事をする様になった。
ドリンクバー用のホットドリンク用の大きめのマグカップに、おばちゃんが用意してくれたマイク一本と利用時間と個室番号の書いてあるプラカードの入った100均で売っているような壊れかけの籠を受け取って、慣れた手つきで、カウンター横にあるドリンクサーバーからホットココアをコップに並々になるくらいに注ぎ入れる。108号室に入る。
中坊以来の常連なので、入店、カウンターから、サーバー、そして個室に至る動線も今では無駄も無い。
学校とは打って変わって、ここでの時間は少しも無駄にしたくない。
冷房の程よく効いた108号室は、三人で一杯になる程度の小さな空間。奥まったカラオケ店の端っこの個室なので、隣室を除いてはほとんど人の気配を気にしなくていい。よく分からないが、いつからかおばちゃんがいつもこの部屋に通してくれる。少し手狭でタバコ臭く、薄暗い108号室は、一にとって数少ない自分の場所だ。一は学生カバンを一人用の座椅子に下ろすと、まずカバンから今日の分の英語の小プリントと教科書、筆箱を取り出す。
まずは30分、本日分の宿題をこなす。意外にも広いボックスに設けられたテーブルは、家に机が無い一にとって、格好の勉強机だ。 ここでの勉強時間は、効果てきめんのようで、今の所学校の小テストはそれなりに好成績をキープしている。まさにカラオケ様々だ。
カラオケボックス内には、楽曲が演奏さていない時に画面に流れる新曲紹介をするアイドルグループの高い声が流れ、一のシャープペンシルを走らせる音をかき消すようにこだましている。
きっちり30分で宿題を終わらせると、後はお楽しみ時間。さっさとプリントと勉強道具をカバンの中に押し込むと、楽曲の送信端末に手を伸ばす。
最近のカラオケは一昔前の様に番号をリモコンに入力して送信するものもめっきり少なくなった。このカラオケ店もその例に漏れず、曲名や歌手名をタッチペンで入力すればすぐに楽曲を検索できるモニター機器を導入している。
一は慣れた手つきでモニターで楽曲を探し出すと、曲を入れ、カゴに入ったマイクに手を伸ばす。一曲目はやはり、疲れと眠気を吹き飛ばしてくれる、元気一杯の曲で景気付けしたい。
勢いの良い前奏が流れ、曲名が画面に出ると、一はマイクを握り締め、勢い良く歌い始めた。
ゴキゲンな蝶になって きらめく風に乗って
今すぐ キミに会いに行こう
余計な事なんて 忘れた方がマシさ
これ以上 シャレてる時間はない
何が WOW WOW〜 この空に届くのだろう
だけど WOW WOW〜 明日の予定もわからない
無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃ
そうさ愛しい 想いも負けそうになるけど
Stayしがちなイメージだらけの 頼りない翼でも
きっと飛べるさ On My Love
ウカレタ蝶になって 一途な風に乗って
どこまでも キミに会いに行こう
曖昧な言葉って 意外に便利だって
叫んでる ヒットソング聴きながら
何が WOW WOW〜 この街に響くのだろう
だけど WOW WOW〜 期待してても仕方ない
無限大な夢のあとの やるせない世の中じゃ
そうさ常識 はずれも悪くはないかな
Stayしそうなイメージを染めた ぎこちない翼でも
きっと飛べるさ On My Love
無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃ
そうさ愛しい 想いも負けそうになるけど
Stayしがちなイメージだらけの 頼りない翼でも
きっと飛べるさ Oh Yeah〜
やはりいつ歌っても、この曲は変わらず一の気分を昂揚させてくれる。ベタかもしれないが、一定の世代にとっては、アニソン好きでない人やこのアニメを見たことの無い層も含めて、もはやカラオケの定番ソングとも言えるのではないか。
この曲がOPになったアニメは、夏休みのキャンプをきっかけに異世界に迷い込んだ子供達が、パートナーとなる異世界の住人達と出逢う中で、そこで与えられる試練を通じて自らと向き合い、成長していく様を描いた大人気冒険シリーズ。その第1作目を飾る記念すべきアニソンだ。
アップテンポで力強い曲調に、まだ見ぬ未来への期待をふくらませつつ突き進んでいく子供たちの気持ちが乗せられているようだ。このアニメでは、OPが男性歌手によって歌われ、EDが女性シンガーの歌唱による。OPでは主に、主人公の少年たちの果敢に敵に立ち向かっていく雄々しい心情が歌い上げられているのかもしれない。
ただ、この歌の歌詞をよく見てみると、前向きな曲調に反して、自分への自信のなさや、広い世界に飛び出していく事に対する底知れない不安が見て取れるような気がする。自らの弱さと向き合い、受け入れながらも、それでも自分の翼で羽ばたいていく勇気を持つ少年たちを躍動的に表す歌詞も、脆さが指摘される最近の若年層に大いに受け入れられた一因なのかもしれない。
カラオケで何度も曲の歌詞を見ている一はアニソンを熱唱しながらも、アニソンの曲調や歌詞から、楽曲それぞれの良さ、についてそれとなく考えていた。
それから約一時間半、一は思い付くままにアニソンを選曲し、心ゆくまでひたすらに歌い続けた。
こうやって他人の目を気にしないで思うように声を出せるこの時が、普段は声を出さずに過ごす一にとって、心安らげるひと時なのだった。
どメジャーのアニソンから始まりました。以降、こんな感じで一お気に入りのアニソンを紹介していきます。因みに、第2話の時点での一は高校二年生です。今後当分の間、この時間軸で話が進むと思います。多分。