0曲目.再会
雨は、望まない日にやってくる。
大学でもバイトでも、何にしても家を早く出ないといけない日に限って、雨は降っているような気がする。
今日はそんな日だった。
朝からむわっとした湿気が空気の芯にまで浸透し、汗が体に絡みつくような暑さだった。そんな暑さの中、雨が朝から降り続き、気分も鬱々とする日、なんとかバイトを終わらせた一は、下宿先のアパート前で自転車を降り、乗りながら差していた傘を閉じた。
新年度から晴れて大学生になった一は、都心に程近いこのアパートで念願の一人暮らしを始めた。
駅から自転車で歩いて15分ほどの場所にあり、敷金・礼金を含めてもかなり安めのアパートだ。2階建て築40年程と、中々のボロアパートだ。親切なお隣さんやどこかズボラな大家さんのお蔭で、居心地はそんなには悪くない。
ただ、家賃は自分で稼がなくてはいけない。
そんなわけで、一は大学入学から数ヶ月の間、一限の無い朝に必死に起きて自転車に乗り、自宅から30分の道のりを漕いでバイト先まで行く日々をせっせと過ごしていた。
まとわりついてくる暑気を振り払う様に自転車を降りた一は、長時間の皿洗いでどこかパキパキした両腕を気にしながらも、カンカン音をたててアパートの階段を登り、自分の部屋のドア前に立つ。
わが城よ、ただいま。
古びたドアノブをガチャリと回すと、バイトで疲れた頭に達成感がふわっと沸いてくる。帰り途中に買ったコーラとカップ麺の入ったコンビニ袋がどこか嬉しげな音をたてているようにさえ感じた。一はなんだか無性に泣けてくる気がした。
ドアを開けて部屋に入ると、まず違和感を感じた。
まず、電気がついている。家を出る時に確かに消したはずの蛍光灯が部屋の中を照らしていた。それに部屋全体が涼しく、長い時間部屋を空けて帰って来た時お決まりのジメッとした空気でなく、過ごしやすい環境だ。そして、人の気配がある。数メートル以内に人がいる特有の感覚がある。
快適でありながらも異様な雰囲気に気付いた一は、それとなく持っているコンビニ袋の取っ手をきゅっと握って身構えながら、視線を下に下ろした一はギョッとした。
見覚えのないローファーが置いてある。自分の玄関口に、綺麗に揃えて、他のくつの邪魔にならない様に脇に置いてある靴は、自分の足のサイズより随分小さい。そもそも、自分のローファーは大学の入学式以来、下駄箱の肥やしになっていたはずだ。
というか、よくよく見てみると玄関口の様子も大分変わっている。いつも乱雑に脱ぎ散らかした靴で散乱しているはずの玄関口が、綺麗に整理整頓されている。自分の靴はみな綺麗に整列してあり、靴を買った後そのままだった紙箱も、丁寧に潰して紙袋に入ってまとめて置いてある。
自分が家を出た時とまるで異なっている玄関口の様子を見て、一の緊張は次第に混乱へと変わっていった。
鍵、確かに家出る時に閉めたよな…。
一はおそるおそる靴を脱ぎ、抜き足差し足で部屋に入る。狭い部屋ではあるが、中腰の姿勢で小さい廊下を歩き、これまた小さい居間の様子を伺うと、奥にあるベッドに、誰かが横たわっているのがちらりとうかがえた。
だ、誰か、ね、寝てるのか…?
一が気配を悟られないようにベッドを見ると、そこには女の子が一人、仰向けで寝ていたのだ。
すぅ...すぅ…すぅ…。
部屋にはリズムのよい寝息だけが静かに響き、それと合わせて女の子のお腹は規則正しく上下している。自分が無造作にドアを開けたにもかかわらず寝ていることから、かなり熟睡しているようだ。
一は衝撃で頭の中が真っ白になってしまった。
だ、だれ…?
セーラー服を着て、ベッド横に学生用らしきカバンが置いてあることから、その子が女子中学生か高校生だということが分かる。仰向けに寝ている女の子のちょうど胸の位置には、一が昨日買った漫画の単行本が、背表紙を上にして開いてあり、呼吸に合わせて上下している。どうやら読んでいて途中で寝入ってしまったのだろう。
顔をみると、色白の子だ。目を閉じていても目鼻立ちがはっきりしているのが見て取れ、かなりの美少女であるのが分かる。髪は漆黒のロングで腰まですっと伸びている。くせのなさそうな綺麗な髪だ。
一は思わず見惚れてしまいながらも、自分のベッドで寝息を立てる珍客の観察を通じて冷静になってきた。そして一は、ベッドで熟睡する見知らぬ女の子から目を離せなくなりながらも、その顔にどこか見覚えがあるのに気づいた。
あれ、この子どこかで……、いやいやいやいや、それよりも、なんで自分の部屋にこんな女の子が?
混乱した頭の中を立て直しながら、女の子の顔のすぐ横に大きく黒いヘッドホンが置いてあるのを見て、一は体全体の細胞がぶわっと弾けるように騒ぎ出すのを感じた。
この子は………!
大きく黒い、つくりのゴツゴツしたヘッドホン。間違いない。間違いなくあの子だ。自分の知っている人の中で、あんなに目立つヘッドホンをしていたのは、一人しかいない。
女の子の正体に気付いた一は、彼女から視線を外さないままに後ろに向かって後ずさりし、音を立てない様にドアノブを後ろ手で回すと、そのまま部屋の外に出た。
部屋を出てはじめて、一は汗で全身がぐっしょりしているのに気づいた。この汗は暑さのせいなんかじゃない。
そして、ドアを背にして振り返ると、そのまま天を仰ぎながらその場にへたり込んだ。
……間違いない…あの子だ….。
とりあえず落ち着こう。そう考えた一は、その場を立ち上がると、アパート階段を降りて駐輪スペースに戻る。
自分の自転車のカゴに、中身がほとんど空っぽのリュックとコンビニ袋を放り込み、そのまま自転車に乗ると、アパートを離れた。落ち着くためだ。特に目的地はない。
しばらくあてもなく自転車を走らせていると、風に吹かれて流石に頭もクールダウンし始めてきた。頭が冷静さを取り戻し始めると、一は突然の侵入者である「あの子」と、初めて出会った2年前のことを思い出し始めた。
雨は、いつの間にか上がっていた。
いきなり二年後から書き始めてしまいましたが、一人暮らしの男の部屋に突然女の子が!のシーンをどうしても書きたかったので…。続きは、回想として時間が巻き戻ります。