介護と仕事
母と暮し初めても恭子は勤めを辞めなかった。それが正男の中で不満の芽を出していた。恭子が近くの共同農場に畑を借りたり、庭に花壇を作ったりしていた。母をまだ働かせるつもりかと思うとうんざりした。それよりも母と一緒に過ごして欲しいと願っていた。
環境が変わった為か母親が段々物忘れが酷くなって行くようだと聞いた時には、
『それみたことか、お前が放っておくからだ。少しは反省して勤めを辞めて一緒にいれば良い』と思った。
病院に連れて行くと、「認知症」だと言われた。ヘルパーさんが来るようになったのも正男には面白くない事だった。介護の専門家が家に居るのだからわざわざ人を頼む必要など無いと思っていた。
そのうちに、トイレの粗相と徘徊が始まった。
在る日正男が家に帰ると恭子は母の粗相の後始末をしていた。
「いい加減、勤めを辞めて家で介護をしたらどうだ?」
正男の言葉に恭子は何も言わない。
「他所の年寄りの世話をするなら、家の年寄りの世話をしろ」
自分でも驚く位キツイ口調になった。振り返ると母を着替えさせた真由が母を連れて傍に立っていた。母が「怖い」と言って泣き出す。それを支えるようにして、恭子は母を自室に戻した。そして、自分の蒲団を持って来ると、
「今日からは、お義母さんと一緒に寝ます」
と言って、母の部屋に行ってしまう。
『なんだあの態度は』腹立ち紛れにビールを注いでいると真由が相向かいの席に座って言った。
「さっきの言葉ってひどくない?」
冷たい視線。正男が何か言わなくてはと口を開くより先に真由が続けた。
「友達のお母さんが勤めを辞めて介護生活に入ったの。同じような境遇で話をする機会が多いんだけど…」
真由が言うには、友達の母親が介護に専念するようになって、目に見えてやつれて来た事、愚痴ばかり言うようになった事。等を話した。
「そんなの、家に年寄りがいて、介護が必要になればするのが当然だ」
正男が言うと、真由は冷たく応えた。
「じゃあ、お父さんがすれば?自分の母親なんだから」
『何を言っているんだ』意味不明な言葉、自分に向けられる筈の無い言葉。
「出来ないんでしょう?そうだよね。お父さんだって本音を言えば仕事を辞めて介護なんて出来ないでしょう?」
「俺とかあさんは違う」
正男の言葉を無視するように、真由が言う。
「最近、おばあちゃん徘徊してないでしょう?なんでだか分る?正春が学校から帰って来るとおばあちゃんの部屋で勉強するようになったからだよ。正春が勉強しているのを嬉しそうに見ているんだって。それで二人でお茶のんでお菓子を食べて、母さんか私が帰ってくるまで過ごしているんだよ。勿論、私だって家に居る時間は出来る限りおばあちゃんと一緒に過ごしてる。おかあさんもそう。何もしてないのはお父さんだけ」
「それは、仕事が…」
正男は血の気が引くような思いがした。自分の知らない間に、自分以外の家族はそれぞれ助け合っている。中学生の正春でさえ。
「確かに、おかあさんの仕事は介護に関係ある仕事だけど、それは単なる職種の問題でしょう?それに、お母さんが仕事を辞めて介護に専念したからって、おばあちゃんの認知症が治る訳じゃないでしょう?」
たたみかけるような真由の言葉に返す言葉も見あたらない。
「結局、おとうさんは自分以外の誰かに押し付けたいだけじゃない。それも、他人じゃなくて家族の中の誰かですませたいんでしょう?それを1人で背負わされる人の人格とか生活ってどうなるのかしらね」
何か弁解しなくては…弁解?自分が?誰に?何を弁解すると言うのだ。正男は自分の思考に戸惑う。
「この家で、帰宅してからおばあちゃんの所に顔を出さないのは、お父さんだけよ」
完全に打ちのめされた。何がなんだか分からないが、惨めな敗北感が正男の全体を包んでいた。後悔なのか?遅く帰宅してもせめて寝顔だけでも見に行っていれば良かったのか。付き合いを断わる努力をしなかった事を悔いているのか。恭子が勤めを辞めないからあてつけのつもりだったのか。自分の親なのに。
「まあ、私も言い過ぎた。ご免。私も偉そうな事言えない。お母さんが勤めていなければ、多分全部おかあさんに背負わせてしまうと思うから」
そう、全部背負わせてしまいたかった。自分に面倒が降り掛からないように。誰だってそうだ。
「正春ね。おばあちゃんと勉強するようになってから覚えが良くなったって喜んでいた。それで良いと思うよ。家族皆で出来る事をしてそれで済んでいる内は良いんだと思う」
そう言って、真由は自室に戻って行った。




