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ぴこちゅう

作者:

 娘が“ぴこちゅう”という名前を頻繁に口にするようになったのは六月の重い曇り空の続く梅雨の最中だった。

 “ぴこちゅう”とは、今流行のテレビアニメのキャラクターだった。休日に娘と一緒にビデオを見たことがあったが、主人公さとる君にくっついているモンスターの名前であり、モンスターといってもペットのように従順で一人と一頭の間にある心の交流をうったえているようなアニメだった。

 そのモンスター・ぴこちゅうという名前を嬉しそうに語る5歳の娘・里美。

 私はてっきり、“ぴこちゅう”とは別れた妻が月一回娘に会ったときに買い与えた新しいヌイグルミの名前だと思った。

 娘の部屋には、寂しい思いをさせてしまっている償いのように玩具やヌイグルミに溢れている。以前にもキキちゃんやララちゃんというお友達と仲良かったこともあって私は別段気にしなかった。

 言い訳になってしまうが、私も新しい職場、新しい人間関係に疲れていたのだ。

 だから家に帰ったとき、ろくに相手が出来なくても楽しそうに笑顔でいる里美に助かっていたし、今日は幼稚園から帰ってから、ぴこちゅうとこんな遊びをしたの云々のおしゃべりを聞き流すことぐらい苦にならなかった。

 里美は、嬉しそうにおやつをわけっこした、ピザをぺろっと一枚ぴこちゅうが食べてしまった、ベランダに降り立った大きな野良猫を追い返してくれた・・・そんな話もあったことを覚えている。

 冷蔵庫の生肉がなくなっているなんていうことだってなかったから、私はただの里美の一人遊びだと疑わなかった。


 七月に入って梅雨が明けた頃。

 さすがに、仕事にかまけて娘を放りっぱなしにしていていたことに反省した。

 放りっぱなしだといっても、食事はちゃんと与えていたし、週一の洗濯をして清潔なものを毎日着せていた。

 が、それだけでは別れた妻と同じだと気が付いたのだ。

 晴れた日曜日、久しぶりに遊園地でも行こうと思い立って、娘の部屋の扉を叩いた。

 里美は提案に嬉しそうにはしゃいだが、そのあと

「パパ、ぴこちゅうもいっしょにいってもいい?」

「ぴこちゅうかい?あまり大きいといっしょに乗り物に乗れないからねえ。どのこだい?」

「おおきくないよ、このこ!」

 里美が笑顔で指し示したものに、私は言葉を失っていた。

 なんとなく黄色いものを想像していた。アニメのぴこちゅうが黄色い一抱えほどのずんぐり体型のハムスターっぽい生き物だからだ。

 しかし、里美のぴこちゅうは真っ黒だった。

 大きさはバレーのボールほどで、まさに毛玉のような塊だった。艶やかな黒い毛が優しい色合いの娘の部屋の中で異質に浮いている。

 そして、なにより。

 黒い塊は不気味な雰囲気に情操教育に良くないと感じなんとか取り上げてしまおうと手を伸ばした私に、飛びつくように動いたのだ。

 ひいっと悲鳴をあげていた。

「ぴこちゅうもゆうえんちにゆけるってよろこんでいるね」

「ぴこちゅうくんって、これはいったい・・・」

 どう質問していいか分からない。

 しかし、しっかりものの娘は父親の疑問を感じ取って説明してくれた。

 とめるまもなく、黒い得体の知れない塊を胸にしっかりと抱きしめて。


「したのちゅうしゃじょうのかだんのなかにいたの。ごはんはたべないの」

 マンションの駐車場の縁にある花壇の枯れた草の陰にそれはいたらしい。

 6月の珍しく晴れた土曜日にお友達の友ちゃんと公園に遊びに行き、その帰りに見つけたと言う。そのときはもう友ちゃんと別れたあとで一人、花壇の周りにも誰もいなくて里美は一人きりだった。

 誰も、注意し止めるものがいなかった。

「こんなところにいると、またあめがふってきて、ぬれちゃうよ」

 優しい里美は心を痛めたのだ。

「じゃあ、さとちゃんといっしょにおへやにくる?」

 ぴこちゅうは、うんと返事をしたと里美はまじめな顔をして話してくれた。

 ごくりと口のなかに溜まった唾を飲み込んだあと、なるべく普通そうに精一杯気を使っていた。

「里美。ぴこちゅうはお外に帰してあげなくちゃいけないよ。マンションでは生き物は飼ってはいけないからね」

「いや!そんなのだめ。ぴこちゅうはさみしがりやなの、ひとりっきりはいやだってゆってる。さとちゃんのことすきだって、いっしょにずっといるっておやくそくしたの!」

 とたんにくしゃくしゃの泣き顔になった。

「パパだって、まえきいたとき、おとなしかったらいっしょにおへやにいていいっていったもん!!」

 適当な相槌の結果だった。

 ぴこちゅうを部屋に泊めてもいいかと聞かれたことが、ある気がした。

 ヌイグルミだと信じきっている私は、覚えていないが里美が言うとおり答えたのだろう。

 一ヶ月以上もまえの話だったろう。

 それからずっと里美は、このぴこちゅうと一緒に暮らしてきた・・・。

 なんていう失態だろうか。

 得体の知れない生き物、どんな病気をもっているかもしれないし、大人しいかだってわからない。

 幸い、今娘は無事のようだったがこのまま放置は出来なかった。

 たとえ、泣いて嫌がろうと。

「パパにぴこちゅうを」

「だめぇっ!」

 猫なで声だったが、不穏な空気を感じ取った里美が胸の黒い塊を背中に庇おうとした。

「駄目だ、かしなさい!」

 小さな子供から、力ずくで取り上げるなど造作もないことのはずだった。

 しかし、そのぴこちゅうが!!

 くわっと黒い毛の塊が裂けていた。

 大きな亀裂のなかは真っ赤で、白いものがぴっしりと並んでいた。鋭いそれは牙で、もう二つの横に並んだ裂け目はかっと見開いた目になった。真っ赤で瞳孔が横に長い眼だった。

 掴もうとした私の指を噛み付こうとして、私は慌てて手を引いた。


 遊園地は取りやめになった。

 里美は部屋に内から鍵をかけてぴこちゅうと閉じこもってしまった。

 私は一人居間のソファーで頭を抱えていた。

 どうして。

 考えあぐねて素朴な疑問に至っていた。

 どうして、ぴこちゅうなんだろう、とぼんやり考えていた。

 真っ黒で耳だって手足だってない、似てもいないあの黒い塊に里美がつけた名前がぴこちゅう。

 ああ、もしかして。

 アニメのさとるとぴこちゅうのように仲良くなりたいという想いからだろうか。

 と、するととても悲しくなった。

 里美はやはり母親がおらず、父親に相手にされずに寂しかったのだろうか。

 額を擦り付けて謝りたい気分だった。

 自分に非がある。でも、再び寂しい思いをさせても、あのぴこちゅうは娘から離さなければと思っていた。

 あれは、私は取り立てて架空生き物にも世界の動物にも詳しくないが、モンスターであると確信していた。

 あれは真っ当な生き物ではない。身体の作りも生物学の理論や理屈を無視して、そしてなによりも第六感がつよく訴えるのだ、危険だ、良からぬことがおこるのだと。

 夕食、私は朝の出来事など忘れてしまった振りをして鼻歌で、ハンバーグとたこウインナーとホットケーキと、近所に買いに走って、季節外れのうさぎ林檎を作ってテーブルに並べた。

 呼んでも出てこなかったが、手紙を置いて私が自室に入った後、里美が食べている様子を扉の隙間から確認してほっとしていた。

 ごめんね、なかなおりをしよう、と書いた手紙には、いいよと返事が書いてあった。

 翌朝、私たちは仲直りをして、里美を幼稚園に送っていった。

 普段ならそのあと会社に向かうのだが、この日、いつもと同じように背広を着込んでいたが私は会社には行かなかった。

 私はその足で、とんぼ返りにマンションに戻って里美の部屋に入っていた。


 黒々としたぴこちゅうはベッドのうえのクッションのうえにいた。

 軍手をしてそっと触った。

 眼をぎょろっと開いたが、なんとか無事にダンボールの箱に入れた。

 そうっとそうっと車に乗せた。

 ぴこちゅうは入っていないように大人しく、ごそりともいわなかった。

 私は隣町に流れる川の橋の上にいた。

 田舎で人通りはほとんどなかった。

 私は、あたりを警戒してダンボールを流れの豊かな川に放り込んで、車に飛び込んでエンジンをかけた。

 視界の隅で水面に浮き沈みしながら流れてゆくのを見た。

 箱の中には、ぴこちゅうはちゃんと入っていただろう。重みがあったから。

 そして、幼稚園から戻った里美が散々泣いたのだから。


 それで、私の直面した問題は解決したのだと思っていた。


 家出をしてしまったぴこちゅうに嘆き悲しむ里美を慰めつつ一週間がたった。

 里美の涙もそろそろ乾きだしたころだった。

 里美と私の問題は川に放り込んだことで、その規模を著しく変えてしまったのだ。


 月曜日の朝だった。

 テレビをつけると、特番だった。どのチャンネルに変えてもニュースの特別番組だった。

 まるでアニメか、特撮子供番組の世界だった。

 ニュースキャスターが青ざめた顔でわめき散らしている。

「突然、海辺の寒村に現れた巨大なモンスター“ゴロラ”の被害は甚大です!建物に次々と体当たりして○○村の商店街はいまや壊滅状態です!!」

 私は呆然と画面を見つめていた。

 ライヴ中継で、“ゴロラ”が映されていた。

 ごろごろと丸い怪獣なので“ゴロラ”と命名されたらしい。

 黒い毛が生えた塊のような巨大モンスターは二階建ての民家や、電柱、車など紙工作の作品群のように簡単に崩していた。

 悪夢のような光景だった。

「建物の下敷きになった主婦××さんが重態の大怪我をはじめ、7人の重軽傷者がでていますーーー」

「どうしてこんなことになったのか・・・いったいあれは!!もうなにがなんだか信じられませんっ」

 涙ながらに訴えるのは自身も額に怪我を負って赤く塗れたタオルで押さえている主婦の旦那だった。

「あ!ぴこちゅう!!」

 喜びの声があがった。

 喚声はテレビではなく、後ろから、目をこすりながら起きてきた里美のものだった。

「ち・・・違うよ、里美。あれはぴこちゅうなんかじゃない!」

 剥きになって私は否定してきた。

「ちがうもん、あれ、ぴこちゅうだよ、パパ」

「・・・ぴこちゅうはあんなに大きくなかったし、そう、足だってほら!」

 丸い塊から軟体動物の触手のような細い筋が四本延びて、まるで4本足の獣のように塊を浮かせて移動していた。

「ぴこちゅうだもん。たくさんあるけるようにしんかしたの。それで、さとちゃんがすぐにみつけられるようにおおきくもなったんだって」

 画面を見つめながら里美はうふふっと笑ってはしゃいでいた。

「ぴこちゅう、さとちゃんのとこにもどりたいんだって。さとちゃんをいまさがしているってゆってる!!」

 私の耳を疑うことを言った。

「むかえにゆかなくちゃ。ぴこちゅう、さみしいのきらいだから、さとちゃんにはやくきてって、パパゆこう!!」

 私の顔色はニュースキャスターどころではなかっただろう。

「迎えにって、それは無理だよ・・・。それにあんなに大きくなっちゃったらもう一緒に住めないから」

 捨てたものが人命に関わる被害を引き起こしている。自衛隊の出動がどうこうと言われている問題を引き起こしているとしたら。

 私には責任などないはずだ・・・。私は悪くないはずだ・・・。

「だいじょうぶ。さとちゃんみつけたらまたちいさくなるってゆってるもの」

 アニメのさとるとぴこちゅうの様に、里美と黒いぴこちゅうも強い心の結びつきがあるようで、町を壊しながらのし歩いているだけに見えるテレビ画面から里美には気持ちを感じることができているようだ。

「むかえにゆかなくちゃ。ぴこちゅうはさとちゃんをさがしてるの、ゆかなくちゃ」

 ねえ、パパ、と腕を揺さぶられてお願いされる。

「パパがつれていってくれないなら、おじいちゃんにおでんわする!!」

 癇癪を起こして電話に向かった里美を慌てて追いかける。

「わかったから・・・お出かけの用意をしなくちゃ。だから・・・少し、待ってくれ・・・」

 私はそれだけを搾り出すように言ってーーー。


 テレビは田舎町に起こった世界的な大ニュースを繰り返していた。

 また怪我人が増えたと速報が報じられた。

 ゴロラは県を越えて、被害を広めつつある。

 ゴロラの進路予想路は不幸か幸いか、こちら・里美のマンションではなく首都圏に向かっていた。

「さみしいさみしいってゆってるよ。さとちゃんがはやくぴこちゅうをみつけられるようにもっともっとおおきくなるって。パパはやくぅ!!」




 ああ・・・どうしよう・・・。


 あのまま無害そうなぴこちゅうを部屋に住まわせておくべきだったのだろうか・・・。





ありがとうございました。

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