06.噂話
「ミナカミ……俺の使いか?」
水上晶はひとしきり笑うと、少し考えて続けた。
「水神の使いか……まぁ、お前の名前『龍』だし、合ってるって言えば、合ってる気はするけど、違うって言えば、違うしなぁ」
〈全然違うだろ。全く。他人事だと思って。変な噂も立ってるみたいだし〉
晶が、龍の影と話すようになって、一週間が過ぎている。
実験室を使う学部に昔から、夕方の幽霊の噂があることも、この一週間で知った。
学食で、「庄野龍が行方不明」との噂と共に、晶が偶然耳にした話だ。龍の両親が、ようやく捜索願を出した為に、広まった噂だった。
庄野君は、夕方の幽霊に捕まったらしい。
大学生にもなって小学生並の噂話で、真相を知らなければ笑い飛ばすところだが、全く外れている訳でもない話に、晶は思わず、後ろのテーブルに聞き耳を立てた。
昔から、研究棟には夕方になると誰のものとも知れない影が現れて、低い声で話をしている。
この大学が研究棟を建増す時に、古墳か何かを移動させたことが原因らしい。
遺跡の石組は、博物館に移設・復元されたが、「中身」は元の場所……今の研究棟に残った。
龍と同じ学部らしい学生たちの噂話は、大体そんな内容だった。
その後、晶の家にも、警察が聞き込みに来た。昔から付き合いのある隣家だからだ。失踪するような悩みを抱えている様子はなかったか、と言うようなことを聞かれたが、思い当らなかったので、それには正直に答えた。
それ以前に、龍の両親も訪ねていた。
晶は、龍の置かれた状況を概ね把握していたものの、誰にも説明していない。自分一人の胸に仕舞い込んでいた。実際、龍は晶にも何も言わず、出て行ってしまったのだ。……この時代を。
「何で、科学やってる大学生や院生が、そんな非科学的な噂するかなぁ? 量子力学に全然かすりもしないじゃないか。もっと、こう……なんて言うか、現実的に、事件や事故に巻き込まれたとか、論文が書けなくて一人旅に出てしまったとかさぁ。あるだろ。色々と」
〈お前、俺がそんなことにでもなってた方がマシだとか思ってる?〉
秋の日は釣瓶落とし。廊下の空気が冷え始めた。遠くから、虫の音が聞こえてくる。
晶の声だけが、誰も居ない廊下に響いていた。
学際研究のフロアには、不似合いな静寂だ。
科学の分野と応用範囲が急速に広がったことが、学部の垣根を崩し、複数の学部で構成される「学際ゼミ」が、年々その数を増していった。
ニューロコンピュータの開発を目指すコンピュータ工学がバイオの知識を必要とし、ハミルトン経路の問題を解くために蟻の行動パターンの情報や、その行動を制御する遺伝子の……塩基配列そのものを使用し、脳機能の解析にコンピュータの数理を当て嵌める試みなどがなされていた。
何かの実験を行う際の倫理面や法的な問題点の整理、古文書の再確認による過去の災害のデータベース化や、変化朝顔の系譜と現存する種のデータ比較等々、一見無関係に思える研究分野が、次々と結びつき、複雑に絡まり合って多数の学際ゼミを設立させた。
二人が通う大学では、理学部の他、工学部、農学部、文学部、法学部、医学部、薬学部がこの多彩な学際ゼミを構成している。
龍は理学部で、そんな学際ゼミのひとつに入っていた。
晶は、龍がどのゼミで、何を研究していたのか、詳細は知らない。タイムマシンがゼミの研究なのか、個人的な研究なのかもわからない。
それでも、この現象がタイムマシンとは無関係なことだけは、確かだと思えた。
二人の影が重なっていれば、「今」の声は龍に届くが、「過去」に居る龍の声は、「今」に現れた影に触れていなければ、晶に届かない。
晶は、無尽の廊下に虚ろに漂う龍の影と、自分の声に肌寒さとは別の寒気を覚えた。
〈晶?〉
「……龍、お前、なんで誰にもなんにも言わずに、出てったのに、こうやって俺と話たがるんだ?」
〈なんでって……〉
「全く、後先考えずにいきなり突飛なことして、みんながどれだけ心配してると思ってるんだッ?」
晶は影に拳を叩きつけた。
龍の影は、何も言わない。冷え切った漆喰の固い感触があるだけで、龍の影が痛みを感じているのかさえ、わからない。
晶は膝の力が抜け、そのままズルズルと床にしゃがみ込んだ。
窓枠のシルエットの向こうで、羊雲が茜色に染まっている。
今日の夕日は、もう龍の声を届けるだけの明るさを失っていた。
龍の影が何か言っていたのか、黙ったきりだったのか、わからないまま日没を迎えた。