02.廊下
それから半年余り、晶は龍の姿を見ることがなかった。
新緑だった木々は、もうすっかり赤や黄色に色を変えている。
龍の家族によると、大学に行ったまま、帰って来ないらしい。
以前から研究室に泊り込むことが多かったので、連絡がなくても、龍の家族はあまり気にしていない。
当初は母親が心配して大学に連絡していたが、本人に「恥ずかしいからやめろ!」と凄い剣幕で怒鳴られて以来、何もしないようにしている。
研究室に籠っている間、龍はケータイの電源を切っている。
今ではすっかり慣れてしまい、龍の不在は今回も、早い段階で誰も気にしなくなっていた。
ただ、晶は龍と最後に会った日のことが、気に掛かっていた。
夕暮れ時の校舎の中、他学部の教室や、実験室、研究室の灯を頼りに、虱潰しに龍の姿を求めて歩く。
真っ先に、龍が所属するゼミの研究室に行ってみたが、そこに幼馴染の姿はなかった。指導教官やゼミ生も、行方を知らない。
龍の家族にそのことを伝えてみたが、軽く流されてしまった。
……例えば、俺の知らない彼女の家に居る……とか……だったら、まぁ余計なお世話だよな。
大学の校舎は、山腹に建てられていた。
同じフロアでも、下から数えた階数が異なる。晶は、他学部の校舎を探し歩く自分が、今、何階に居るのかわからなくなっていた。
さっきまで三階を歩いていた筈なのに、気が付くと廊下の表示が四階に変わっていた。階段やエレベーターを使った覚えはない。
渡り廊下の真ん中には、「A棟2階/G棟3階」と言う案内板がある。
山肌に階段状に建てられた校舎は、いつの間にか変わっている階数表示だけでなく、曲がりくねった廊下の左右に、面積の異なる教室や実験室が並んでいる。実験用の温室への一方通行の扉や、資料室に突き当る袋小路、大講義室に続く緩やかに傾斜した長い廊下が、晶の方向感覚を惑わす。立体迷路の方がマシに思えた。
廊下で知り合いと行き会えば、龍の行方を訪ねるが、彼らも首を傾げていた。
……龍ももう大人だし、本人が探すなって言ってんだし。自殺するようなタマでもないし。
大学の構内を何時間も歩きまわり、どこにも見当たらないことが分かると、そのことをもう一度、龍の家族に告げたものかどうか、思案に暮れた。
晶がこうして、龍を探すようになって、もう何カ月にもなる。考えが堂々巡りする。
……でも、もし、何かの事件に巻き込まれてたら……? 俺が警察に言っていいのか?
今日も古い漆喰の壁が夕日に染まり、晶の影を淡い橙色のスクリーンに映し出している。廊下の窓越しに見える夕焼けが、遙か遠くの雲にその日最後の輝きを添えていた。
晶は窓にもたれて、廊下の壁に映る影に目を落とした。
長く伸びた影が廊下を這い、壁に張り付いている。その影の右肩に別の影が触れた。
横を向いたが、まっすぐに続く廊下には誰も居ない。鳥か何かかと、振り返ったが、窓の外にも何もいなかった。
彼方の山に向かう鴉の群が、小さく見えただけだ。
晶の右に現れた小さな影は、シミが広がるようにじわじわと大きくなり、人の手のような形になった。
相変わらず、人の気配は感じられない。
影だけが大きくなりながら、その存在を主張している。
手の形だった影は、僅かの間に腕と肩、上半身を形作っていた。
「……りゅ……う?」
呟いた自分の声に驚いた。
何故そう思ったのか、晶自身にもわからない。いや、何か思う前に口を吐いて出たのが、龍の名だった。
自分の声を耳にして、初めてそう思ったのかもしれない。
主のない影が、頷いた。
動悸を抑え、もう一度、今度ははっきりと影に呼び掛ける。
「龍! 龍なのかッ?」
影は、晶の影の肩に手を触れた。既に人の姿が完全に揃っている。
もう一度、振り返った。やはり晶の隣には、影の主は居ない。
龍の影は、晶の影に手を触れたまま、もう一方の手で自分を示し、手招きした。
少し横を向いた鼻の影の上に、四角く薄い影が乗っている。
……これ……眼鏡の影だ。
気付いた瞬間、晶は身体の芯が熱くなった。
息を殺して、そっと壁に近づく。
長く伸びていた影が短くなり、龍の影と同じ縮尺になった。
龍の影は晶の影から手を離し、今度は晶の影を手で示し、自分の影を指差す。
晶は宙に手を伸ばし、自分の手の影で龍の影の肩に触れようと試みた。
龍の影は、首を左右に振り、もう一度、先程と同じ動作を繰り返す。
「……どうして欲しいんだ?」
影はもどかしそうに同じ動作を繰り返し、壁を叩くような動きを付け加えた。
「……壁に、閉じ込められてるのか?」
そんな馬鹿なと思いつつ、晶は恐々壁に手を伸ばした。
龍の影は首を左右に振って、「壁の中ではない」と訴えている。晶の手が、壁の影に触れた。
壁のひんやりした感触と共に、安堵感のようなものが、晶の指先に伝わる。
〈壁の中じゃない。外に居るんだ〉
「龍ッ? 外ってお前、どこに居るんだ? 何カ月も……」
どこから聞こえるのかと、廊下を見回す。晶の声が廊下に虚しく響いた。
〈山の中だよ。そうか……もう何カ月も経ってることになるのか……〉
何か考え込むような口調が懐かしい。
ほんの数カ月なのに、とても長い間会えなかったような気がする。
「山の中って一体どうなってんだよ? 心配してたんだぞ。何の連絡もなしに、急に居なくなって……」
〈すまないな……でも、連絡のつけようがなかったんだ……〉
「どう言うことだ?」
〈今日は……う遅…………あまり長く話せ……だ〉
夕闇が次第に濃くなり、影が薄れてゆく。受信状態の悪い携帯電話のような声に、返事を待つ。
〈明日の……またこ……くれないか……?〉
日は完全に山向こうへ沈み、夕日の残滓が辛うじて影を映していた。この棟には、実験室が入っているが、今日は誰も残っておらず、照明は点いていない。
「なんだかよくわからないけど……わかったよ」
〈ありが……また……〉
「うん。じゃあな」