11.接点
晶は途方に暮れて、廊下を歩き始めた。
振り向きもせずに駆け出した常盤の後ろ姿が、頭から離れない。彼女が恐怖で逃げたのではないことくらい、晶にもわかった。
龍は彼女の姿が見えないからか、記憶を辿ることに気を取られていたせいか、彼女の気持ちには全く気付いていなかった。
……まぁ、でも、常盤さんの片思いってだけで、俺のせいじゃないよな。龍があのコのこと知らなくたって、もう二度と会えなくたって……
今日は、学食北側のベンチが空いていた。演劇部は舞台練習に入ったのだろうか。
水銀灯の下に人影があった。
俯いた横顔に長い髪が落ちている。ココアの紙コップを両手で包み、いつからここに座っていたのか、紙コップからは湯気が立たなくなっていた。
「常盤さん……?」
彼女は一瞬、身を竦ませただけで、何も言わない。晶は自動販売機で珈琲を買った。
ことん。
紙コップの落ちる音が、やけにはっきり聞こえた。ホット珈琲が注がれる様子を見守りながら、彼女に掛ける言葉を考える。
「俺、庄野の隣に住んでるんだ。幼馴染って奴……」
常盤の向かいに腰かけながら、晶は話し始めた。常盤は俯いて口を閉ざしたまま、紙コップを握り締めている。
晶は珈琲を一口すすり、意識して軽い調子の声を掛けた。
「ココア、冷めるとおいしくないんじゃない?」
「…………」
「……俺も、あいつがどこで何してるのか、最近まで知らなかった。あいつ、俺にも……家族にも黙って、一人で行ってしまったんだよ」
晶は言葉を切った。
常盤は何も言わない。晶はもう一口飲んで、言葉を待った。
答えないので、仕方なく話を続ける。
「……違う時代って言ったけど、具体的にいつなのか、俺にも龍自身にもよくわからないんだ。古い時代なのは確かで、ムラは竪穴式住居で、長老が豊穣を祈る祭りを仕切ってるような時代らしい」
「違う……時代……? どうして『どこか遠く』じゃなくて『違う時代』なんて言うの?」
常盤は冷めきったココアを見詰めたまま、詰問した。
「あいつ、タイムマシンを自分で創ったみたいなんだ」
「…………ッ!」
絶句した常盤の射抜くような目が、晶に向けられた。
「嘘吐くんなら、もっとマシなの吐けばいいのにって顔だなぁ……無理もないけど」
晶はその目を苦笑で躱した。
「俺はあいつをずっと探してて、偶然、あそこであいつの影を見つけたんだ……俺も最初は信じられなかったけど、影と話す内に、認めざるを得なくなった。常盤さんも、龍の声が聞こえたんだろ?」
幾分かやわらいだものの、凍りついた彼女の顔を見ていると、晶の胸はささくれ立った。
龍にとって、彼女は実験室の風景と同程度のものだった。
晶は内心、自分に舌打ちした。声に出してしまった言葉は、取り返しがつかない。それと知らず、形のない刃を抜いたことに気付いても、傷を癒すのは容易ではない。
晶は、珈琲の香を胸一杯吸い込む。自分を落ち着け、静かに言葉を続けた。
「龍は神様の使いだと思われて、村人に大事にされてるらしいよ。祭壇の前に現れたのが丁度、豊穣を祈る儀式の最中だったからだろうって」
心配いらないことを最初に告げ、龍から聞いたことを説明する。
「ムラの様子を知る為に近くの山に登ったら、地元の人に『ときのいわふね』って呼ばれてる石組を見つけたらしい」
村人が恐れて滅多に近付かないことは、不安を煽るといけないので、伏せておくことにした。
誰が何の目的で、巨石を山中に組んだのか、いつからそこにあるのか、誰にもわからない。
「どう言う仕組みかわからないけど、その石組には、現在の……研究棟の廊下の影が、映ってるらしいんだ。影に触ると声が聞こえるって言うのは、村人から聞いたらしい」
何日も試している内にようやく、晶の影と接触できた。
「あいつが行った時代と、今を繋ぐ接点が、研究棟の廊下の影なんだ」
慎重に言葉を選びながら、そこまで説明すると、晶は人肌に冷めた珈琲を口に運んだ。
常盤も冷めきったココアに唇をつけた。
遠くでジャズバンド部の練習が聞こえる。
「夕方の幽霊の噂って、あの常盤ができた頃からあったんだって」
常盤が抑揚のない声で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あそこには、古墳か何かがあって、石組は他所に運んで復元したけど、中身はあの場所に留まったって言う噂」
馬鹿馬鹿しい噂話だ。
小学校なら、脈々と受け継がれるだろうが、ここは大学で、研究棟は主に理系の学部が使っている。
「石組の中に『物』は何も入ってなかったけど、影が入ってたそうです。幽霊を信じる信じないに関わらず、誰のものでもない影が、廊下に映るのを大勢の人が目撃しています」
常盤はそこで言葉を切り、顔を上げた。
「特定の時期の、限られた時間帯限定で……。いつの頃からか、研究棟のあの階では、秋の夕方には、誰も居残りをしなくなったそうです」
二人はしばらく無言で、冷え切った飲み物をすすっていた。
それぞれの説明の共通点と、実際目の当たりにした事象を繋ぎ合せる。
空の紙コップを握り潰し、晶は立ち上がった。
「あ、あのっ、水上さん、庄野君、もう、帰れないんですか?」
「……わからない。あいつが創ったタイムマシンは、壊れてしまったらしいんだけど、接点はある……だから、全く望みがないって訳じゃないかも知れないけど、どうすればいいのか、わからない」
何とも歯切れが悪い。龍に帰る石がないことは、言えなかった。
常盤は「接点……」と呟いた。晶の存在を忘れたかのように、ひとり、考えに没頭し始めた。
晶は水銀灯を見上げた。
無数の羽虫が、光の輪の中を飛び交っている。肉眼では捉え切れないはばたきが、羽虫を光の珠にしていた。透き通った羽が、自ら虹色の光を放っているように見える。
光の精霊。
昔の人は、沼などに発生したメタンガスや、燐の自然発火に光の精霊を見た。
晶は、本当に自ら発光するガスの自然発火より、透き通った羽の反射光の方が、ずっとキレイだと思った。羽虫だとわかっていても。虹色の小さな光の珠。
学食の灯が消えた。
調子外れのサキソフォンの音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「常盤さん、もう遅いし、今日は帰った方がいいよ」
「えッ? あ、あぁ……そう……ありがとうございます」
紙コップをゴミ箱に押し込み、彼女は走り去って行く。
何がありがとうなのか、よくわからない晶は、紙コップを握り締めたまま、その後ろ姿を呆然と見送った。




