10.月光
「あの声、聞き覚えはあるんだよな」
龍は懸命に記憶の糸を手繰った。
晶の苛立たしげな声が、それを遮る。
〈常盤さん、もう行っちゃったぞ〉
「えっ? もう一回聞けば、思い出せそうな気がするんだけどなぁ……?」
……他学部で、同じゼミの、女子。
「どんなコだった?」
〈小柄で髪が長くて、大人しそうなコ〉
晶の声は素っ気なかった。
〈お前が今まで付き合ってたコたちとは、全然違うタイプだ〉
今日最後の光が伝えたのは恐らく、ボソボソと独り言のように口に出されたであろう言葉だった。
晶の影が、石の扉から出て行く。後には、龍自身の影が、船首に落ちているだけだ。
龍は山道を下りながら考えた。
晶は、今まで誰にも龍の置かれた状況を話さなかった。
一体、どう言う心境の変化で「常盤さん」に引き合わせたのか。
龍の記憶にない「他学部で同じゼミの女子学生」なら、晶と面識があるとも思えなかった。晶は学際研究には携わっていない。互いの家は隣同士だ。近所の人なら、龍も知っている筈だ。
昨日、晶に叩きつけられた詰問が蘇る。
〈……龍、お前、なんで誰にもなんにも言わずに、出てったのに、こうやって俺と話たがるんだ?〉
龍は答えに窮した。
何故、晶に行き先を告げなければならなかったのか。
幼馴染だから?
親友だからか?
戻る方法がわからない以上、晶に状況を説明したところで、何の解決にもならない。却って晶を困惑させるだけだ。
無事がわかり、少しは安心したかもしれないが、それが一体、何になるだろう。
もう二度とあの時代には帰れない。
誰にも行く先を告げることはできなかったが、せめて晶にだけは、自分の無事を知らせたかったのだろうか。
知らせたところで、晶は龍の家族に説明できない。
この事象は、龍自身にも説明がつけられない。
晶がどんなに言葉を尽くして、ありのままの事実を語っても、誰一人として理解できないだろう。
事実を知って、それを誰にも告げられない苦しみを、晶に与えてしまっただけではないのか。
誰も知る人のない知らない場所、知らない時代に来て、心細かったからなのか。晶に不安を押し付けたのか。
〈全く、後先考えずにいきなり突飛なことして、みんながどれだけ心配してると思ってるんだッ?〉
そう言った晶の声は震えていた。
泣いていたのかもしれない。
両親はどう思っているのだろう。警察に届けたとは聞いたが、本当に心配しているかどうかはわからない。
兄二人はそれぞれ独立して、遠くに住んでいる。警察が動いたとすれば、兄たちにも連絡は行った筈だ。
晶はこのことを龍の親にも、誰にも明かしていないと言っていた。
……晶の他に、心配するような人っているのかな? 兄貴たちは俺……よりきっと、自分の家族の方が大事だろうしなぁ。
いつの間にか、川の畔まで下りていた。
すっかり山道にも慣れ、ムラの暮らしにも馴染んだ。
きっとあの「ふね」は、ミナカミ様とお話なさる清いところなのだろう。
村人たちはそう噂し合い、龍が「ときのいわふね」に足を運ぶことに異を唱えなくなっていた。
……カミさまじゃなくて、幼馴染なんだけどな。
〈お前のこと、心配してくれてる人の一人だ。ホントに心当たりないのか?〉
……俺を心配してる人の一人……って誰なんだろう? 心配してる人の一人ってことは、他にも何人か心配してるってことなのか?
大学も、騒ぎに巻き込まれていい迷惑だろうな。ゼミの連中も一応、俺の知り合いってことで、警察に色々聞かれたりしてるだろうし……
龍は、川の半ばに突き出た平らな岩に腰を下ろした。
川風が頬を撫でる。冷たい風。
川面に目を落とすと、流れの中で月が揺れていた。上弦の月。月の光が、葦の草叢を、闇の中に浮かび上がらせる。
川は銀色の光を振り撒きながら、忙しく流れていた。
静かな宵闇の中に水音だけが流れ、時折吹き渡る風が葦をざわめかせる。それさえも、静けさを強調しているように感じられた。
……いつも気にしてなかっただけで、本当は色んな物音に囲まれて暮らしてたんだよな。物音って言うか、「騒音」に。
あの中に居る時は、うるさいくらいにしか思ってなかったけど、いざ聞こえなくなると、なんか……寂しいな……




