01.時刻
水上晶は、幼馴染の熱弁に耳を傾けていた。
庄野龍の部屋には、晶にはよくわからない機械の部品が散らかっていた。机の傍らには、机と同じ大きさの組立途中の機械が無造作に置いてある。
あまり広くない龍の部屋には、二人がなんとか座って話せるスペースしかなかった。
「高校受験の時、歴史の勉強をしてて、気付いたんだ」
大学院生の龍は、ずり下がった眼鏡を中指で押し上げると、中学生に戻ったように瞳を輝かせて話し始めた。
「古代文明華やかなりし頃の話だ」
「どの辺の時代?」
晶の質問に、龍は澱みなく答える。
「大河の畔に農耕文化が芽生え、周辺に広がっていった時代。人間は今以上に厳しい身分制度の許で、日々を送っていた訳だ」
「そうだな。定住して、共同体内での役割分担が、身分として固定化したアレな」
「でも、後世には、歴史の試験問題としては、ほんの小手調べみたいな扱いを受けてる」
「まぁ、時系列で行くと、教科書の最初の方で簡単に触れてるだけだもんな。わかってることも少ないし」
「うん。大きく取り上げられるのは、その時代に生きていたとされる偉大な王か英雄か、著書が断片だけでも残っている賢人だけで、庶民が取り上げられることは、まずない」
龍が、どうしてだと思う? と、晶の顔をじっと見詰める。
晶は、どんな答えを期待されているのか見当がつかなかったが、龍の目を見詰め返して答えた。
「そんなの、いちいち取り上げてたらキリがないからだろ。遺跡を調べても、生活とかはわかっても、性格とか何言ってたかとか、わかる訳ないし、文字の記録は滅多に残ってないし……」
「そうだろ。歴史自体『書き記された時代』のことだもんな。口承の記録って、あんまり信用されてなさそうだし」
口碑は、民族が残っていれば、「文字」発明以前の様子をも、今日に伝えている。しかし、他民族との接触や、伝承者の記憶違いなどで、時と共に移ろう欠点があった。
「歴史だって、デッチ上げや書き間違いがたくさんあるのにな。庶民の生活は、寧ろ書き記された物より、口伝の中に生きてるんだけどな。昔話とか、呼び売りの口上とか……。でも、調べんの大変なんだよ。これがまた……」
「それなんだ。晶は口承文学を研究してるから、そう言うの詳しいと思って呼んだんだ」
我が意を得たりとばかりに、龍が身を乗り出す。
「龍、俺に何やらす気だ?」
にわかに不安を覚え、晶の頭の中で、これまでにあったことが目まぐるしく駆け巡る。
龍はあまり歴史が得意ではなかった。
テスト前のノートのコピー、夏休みの宿題は勿論、龍本人の分だけでなく、当時付き合っていた女のコの分まで手伝わされた。
長年、隣に住んでる好じゃないか。今度、微分積分教えたげるからさ……
その「今度」とやらが、いつのことなのか、未だに実行されないまま、月日だけが過ぎていた。
理学部のクセに、いきなり古代文明だの口承文学だの……あやしい。
文系の女の子に惚れて、話を合わせたいから知識を分けてくれ……なんてまた言いだすんじゃないだろうな?
慣れてるけど……
「俺の専門分野は、この国の口承文学だから、四大河文明頃の話なんて、有名な英雄譚の名前くらいしか……」
「知ってるよ。話が逸れて来たから、戻そうな」
龍はそう言いながら眼鏡を拭いて、仕切り直した。
「中坊の俺は思ったんだよ。記録がどうのって言うよりも、当時の人間の暮らしが大雑把だったからなんじゃないか……ってな」
「大雑把なのは、お前の頭の中身だろう」
皮肉たっぷりの晶のつっこみに反応せず、龍は眼鏡を掛け直して続けた。
「日が昇れば起きて働いて、腹が減ったら飯。日が暮れれば寝る。まぁ、当時は庶民には灯がなかったから、夜は寝るしかなかった」
「まぁ、ヒトは夜行性じゃないしな」
晶の相槌に頷き返すと、龍は口調を改めた。
「現代はどうだ? 街の至る所に光が溢れ、深夜でも消さない。光害なんて言葉もあるくらいだ」
「あぁ、イルミネーションとかな」
「始発で出勤して、終電で帰って家では寝るだけなんて人も居る。待ち合わせ、時刻表、時間割、タイムレコーダー、営業時間、休み時間、締切り……定量的な時刻に縛られながらも、太陽の時間には縛られないから……」
「で、何が言いたいんだよ。お前は?」
話が長くなりそうなので、晶は不機嫌に遮った。
眼鏡の奥に鋭い光を宿し、龍は言った。
「俺は、こんな訳のわからない時代じゃなくて、遠い過去の世界で暮らすんだ」
「は?」
晶は思わず声が裏返った。
龍が、穏やかな声で続きを語る。
「俺は、定量的な時刻に縛られたくないんだ。時刻に縛られないなら、場所はどこだっていいんだ」
「……論文の締切り……間に合わないのか?」
「そんな逃避なんかじゃない。俺は真剣なんだ!」
龍のこんな真剣な顔は初めて見た。
もしかすると、本気でタイムマシンでも作り兼ねない。
ワームホールの理論は、色々と反論を受けている。超紐理論もまだ、漠然と語られている抽象論で、実用の段階には至っていない。実際のところ、タイムマシンの製作はおろか、理論の確立さえできていないのが現状だ。
このくらいは、文系に進んだ晶も知っている。
「お前が真剣なのはわかったよ。でもな、理論さえ確立してないのに、物だけ作ろうったって、無理だよ。お前、きっと疲れてんだよ。な、だから……」
「疲れてなんかない。昔の庶民の生活とか、教えてもらおうと思ってたんだけど、もういいよ。晶にも、昔の暮らしを、生で見せてやりたかったんだけどな……」