四人は北に向かうが、望みに近づいたかどうかはわからない
カンタレラの『母』は、穏やかな人だった。
『娘』達が罪を犯しても、眉一つ動かさず、ただ食事に入れる毒の量を増やした。
大きな罪を犯しても、決して怒鳴るようなことはせず、その『娘』の許容量を超える毒を与えるだけだった。
そうして増やされた毒にカンタレラが耐えた時だけは、「自慢の『娘』だ」と笑みを浮かべた。
そういう静かな女だった。
イト・ヨキの母は常に悲しそうな顔をしていた。
イトと弟が母との約束を破り、屋敷の外に遊びに出たときには「外で死んでしまったのかと思った」と泣き、イトが勝手に友人を作ったときには「友達のために死んでしまうのはやめて」と泣いた。
父は常に王に付き従い、イトと顔を合わせることはほとんどなかった。
だから、カンタレラもイトも、生まれてからこれまで、人に怒鳴られたことなど一度もなかった。
なのに、スラフィス・ランペールときたら!!
「お前らバカか!! そんなカッコで船旅に出るヤツがいるか!!」
旅に出る支度を始めてから、北に向かう船が出港するまで、二人は一体何度この青年に怒鳴られたことだろう。
イトは荷物を買い込みすぎて怒られ、カンタレラは大量の通行証を発覚しやすい場所に隠して怒られ、イトは服装を怒られカンタレラは靴の材質を怒られイトは役人に正体を気づかれそうになって怒られカンタレラは金を持ちすぎたことを怒られ二人とも港での手続きの不備を怒られ船員への態度を怒られ、
そしてしまいに、港を離れる船の甲板で、スラフィスの怒鳴り顔についつい二人揃って笑ってしまったのを怒られた。
「だって、私はこんなに怒鳴る人を初めて見たのだもの」
「はい。僕もです」
「あのなぁ……」
「諦めなスラフィス。この二人にゃ勝てないよ」
そんな三人を黙って見ていたリンドンが、少し面白そうに肩をすくめた。
「二人揃って生まれたての雛鳥みたいなもんだ。アンタが犬みたいに吠えるのだって、面白くって仕方がないのさ」
「面白がってる場合じゃねぇだろ。こんなんじゃ、後々一人になったときどうやって生きていくんだよ」
「そりゃあ、独り立ちできるまでアンタが面倒見るしかないだろうね」
「俺かよ!」
つきあい切れないと甲板の端に去って行く青年の後ろ姿を見送るうちに、カンタレラはまた少し笑みをこぼしてしまう。
「笑うなと言われたのに、また笑ってしまったのだわ」
怒られて笑うなど、良くないことだとわかってはいるのだ。けれどスラフィスが怒れば怒るほど、不思議とカンタレラには面白い。
「ねぇイト。おかしなことを言うのだけれど、『兄』というのはああいうものかしら」
カンタレラが日差しに苦しんでも、役人に捕まっても、船員に睨まれて飢えても乾いてもそれはスラフィスの苦しみではないのに、スラフィス・ランペールは怒るのだ。眉をつり上げて怒鳴るのだ。
それが不思議で、そしておそらく、とても嬉しい。
「僕に兄がいたら、きっと父に似ていたと思います。常に冷静で、弟のことなど気にかけることはないでしょう」
イトは少し考え込むようにして答えた。
「ですから、『兄がああいうもの』というのではなく、『ああいう兄がほしかった』と言うのが正しいのではないでしょうか」
「イトは頭が良いのだわ。きっとその通りね」
「ありがとうございます。カンタレラ」
海風を頬で感じながら、二人は微笑みあった。
供も連れずに初めての船、不安もあったが、四人でいると心強さの方が大きい。
特にこうしてイトとふたりで過ごしていると、カンタレラの胸には今まで感じたことのない穏やかな感情が満ちるような気がした。
おかしなことだとは思うが、不思議と悪い気分ではない。この気分を味わえたのだから、旅に出たことは正解だっとさえ感じる。
海鳥の声が聞こえる。カンタレラは穏やかな気持ちのまま辺りを見やった。
「え……」
そして一瞬、我が目を疑った。
スラフィスが船首の近くに立っている。波の様子が気になるのか、剣士は手すりに手をついて海面を眺めていた。
そのこと自体は特におかしなことではない。
だが、その背には、白い大きな骨――モルモが覆いかぶさっていた。
モルモが姿を現すことも、おかしなことではない。契約を結んでから、モルモはカンタレラの背後にもふいに現れては消えることが度々あった。
スラフィスの背後の骨も既に姿を消している。問題はその存在ではないのだ。
――今、モルモが指さしていたのは、南ではなかったか?
カンタレラは目をこすった。改めて剣士の背中を見るが、そこに白い骨の姿はない。
だが、間違いなくモルモは南を指さしていたはずだ。
どういうことだろう。スラフィスは「自分の探すものも北にあ」るといっていたはずだ。
「……モルモ」
カンタレラはさりげなくイトと距離をとると、小声で骨の悪魔の名を呼んだ。
「私の探すものは、どの方向にあるの」
骨はカタタと歯を鳴らし、白い爪を北に向けた。
「では、スラフィス・ランペールの探すものはどこにあるの?」
『それをモルモに尋ねるのに、カンタレラは何を差し出す?』
カンタレラは眉をひそめた。
「……方角を聞くだけなのだわ。実際に探したいと思っているわけではないの」
『スラフィス・ランペールが命と引き換えに求めるものをモルモに尋ねるのに、カンタレラは何を差し出す?』
骨は正面からカンタレラの顔を覗き込む。
眼球のない暗い二つの穴が、静かにカンタレラの目と向き合わされる。
「……わかった。もう聞かないのだわ」
モルモは笑う音だけを残して消えた。
青空の下で、カンタレラはしばし思案した。
……これは重要なことだろうか。それとも。
「カンタレラ? どうかしましたか」
振り返ると、いつの間にか不安げな顔のイトが近くに立っていた。
「いいえ何も。ただ少し不安になったの。私の探す薬はちゃんと見つかるのだろうかと」
「大丈夫ですよ。この世に存在するものなら、いつか必ず見つかります」
「そうね……」
二人並んで潮風を受ける。先ほどと同じ穏やかな光景ではあるが、
ふと、ある疑問が頭に浮かんだ。
イトの祖父は王の暗殺を阻止して死んだという。イトも、祖父と同じ力をもっている。
しかし、サハラーゥの先王は死んだ。イトはその死を予見しなかったのだろうか。
カンタレラはそっと横目で予見者の顔を伺った。
イトは穏やかな表情で潮風に吹かれている。
……私が首を突っ込むべきことではないのだわ。
カンタレラは一度ぎゅっと目を閉じると、振り返りイトに笑いかけた。
幸い天気は良く、四人を乗せた船はスイスイと北に進んだ。
北に――隣国に、カンタレラが嫁ぐはずだったその国に。
サハラーゥの北に隣接する国の名は、アリシアという。
両国の間には大きな内海があり、国土の西端だけが陸で繋がる。
それ故、隣国といっても気候はまるで違っていた。
砂に覆われたサハラーゥとは対称的にアリシアの国土は豊かで、あちこちに泉が湧く緑の国。
その肥沃な土地をサハラーゥの王は常に欲し、反対にアリシアの王はサハラーゥの金と宝石を欲した。
争いが絶えないのは隣国の常。
特に交通の要所である国境の街は何度も戦の舞台となり、その度に、二つの国には憎しみが積もった。
先王の時代には大きな争いは起こらなかったが、あくまで仮初の平和。
長年の間に両国に蓄積した恨みは蓋の下のシチューのように煮えたぎり、いつ大きな戦が起きてもおかしくないと思われていた。
カンタレラは、それを解決するための切り札であるはずだったのだが――
「……くだらないことを、いつまでも考えるべきではないわ」
甲板の手すりに手をついて、カンタレラは小さく頭を振った。
輝く波、白い帆、世界は広く美しく、風に吹かれているだけで気持ちが明るくなるというのに、ふとした瞬間に『それ』は蛇のように頭をもたげる。
全ては過去のこと。今、北に向かうのはあくまで『薬』を手に入れるためだ。
アレスの国であることなど、何の意味もない。
アレスは――アリシアの王は、まだ国境の街を狙っているのだろうか。
サハラーゥの新しい王は、本当に国を守ることができるのだろうか。和睦交渉はどの程度進んでいるのだろう。
和睦の使者には誰が立った? 先王と繋がりの強かった者は粛清の対象になったはずだ。
国の中枢が乱れている状態をアレスが見逃すだろうか。
カンタレラは水平線に視線を向けた。まだ陸は――アレスの国は見えない。
アレスは強い王だ。チャンスを見逃すようなことはしない。八人いた兄王子を全て退け、数多の暗殺者の手から逃れてその座についた。
即位してすぐ、西の蛮族を押さえ、泥沼化していた貴族の争いを沈め、北の憂いも解決したと聞いている。
アレスは強く、一分の隙もなく、野心家で、飢えた狼のような王だった。
「……アレス」
無意識のうちに名を口にしていた。
彼は今、何を思っているのだろう。
自分に捧げられるはずだった娘のことを、思い起こすことはあるのだろうか。
「……くだらないことを」
頭を振った。考えないと決めたではないか。
金の目が言ったように、カンタレラは『自由』なのだ。もうなんでも好きなことを考えてよいのだ。
けれど船はアリシアに近づき、五月も近づく。
それを思うと、カンタレラの胸はギリギリと捻れた。
アレスは今、何をしているのだろう。
港の近くに来ることはあるのだろうか。同じ国に行けば、一目、姿を見ることは可能だろうか。
カンタレラは自由、
カンタレラが自由ならば、
何をしてもよいならば、
なぜ、彼を殺してはいけないのだろう。