プロローグ 毒娘・予見者・千里眼・そして平凡な青年
【ある予見者の話】 ――少年が望むのは満足のいく死である――
その日、イト・ヨキは、自分が家族に黙って家を出る夢を見たので、朝から荷造りをしなければならなくなった。
十三歳のイトは、代々王家に仕える予見者ヨキ家の当主であり、彼の見る夢は予知夢と決まっている。
運命であるから従わなければならない。
これまで一度も屋敷を出たことなどないのだから、大層不安ではあったが、運命に逆らうという選択肢はなく、彼は住み慣れた己の家を、まるで夜盗のようにこっそりと抜け出ることになった。
三月の早朝のことである。
【ある千里眼の話】 ――老婆が望むのは穏やかな生活である――
リンドン・ティアは王宮を眺めて国王が死んだことを知った。
暗殺と粛清を好み、民に対する締め付けも厳しい王であったが、治安は安定し戦もなく、リンドンにとってはよい君主であった。
彼女は千里眼であったから、役人の考えていることなど見ればすぐにわかる。営業する店はずいぶんと繁盛していた。
だが戦ばかりは見えたところでどうにもならない。
「やれやれ、王様もどうして死んでしまったかね」
慌ただしく門を行き来する役人の顔を見て、リンドンは眉を顰めた。
「なんとまぁ、弟に殺されたのかい」
毒殺とはまた、あの王らしい最期と言えるだろう。
王の子飼いの毒師たちはどうなるのだろうか。今度は王弟に仕えるのだろうか。
いや、おそらくは粛清されるだろう。
どちらにしてもリンドンには関係がない。
彼女が気になっているのは、ただ店の行く末だけだった。
四月のことである。
【ある平凡な青年の話】 ――彼が望むのはただ再会することである――
スラフィス・ランペールは己の不運を自覚していたので、訪れたばかりの国で王が『病死』したと聞いたときも、さほど驚きはしなかった。
「まぁだいたいこんな目に遭うんだよ。俺はさ」
余所者に対するチェックが急に厳しくなり、役人に想定の倍の金を取られ、それでも元の国に送り返されなかったのは幸運だろう。
ため息をついて手元の『爪』を見れば、相変わらず北を指している。
目指すものは、北。
どうしてもこの国を通り抜けなければならない。
「早く抜けるのに越したことはねぇな」
安宿の寝台で独りごちたところで、扉を叩く音が聞こえた。
この国に知り合いなど一人もいないし、宿の主人にしては足音が多い。
「……だいたいこんな目に遭うんだよ。俺は」
スラフィスは枕元の剣に手を伸ばし、身体を起こした。
四月の半ば。彼がカンタレラに出会う数日前のことである。
【そして、とある毒娘の話】
――彼女の目的は昨日まで確かにあったというのに、今やどこにもなくなってしまった――
カンタレラの住む国は、サハラーゥと言う。
今はない古い国の言葉で『砂漠』『荒野』という意味だそうで、つまりそれだけ昔から、この国は砂で覆われていたのだろう。
その名の通り国土の半分以上が砂漠であり、厳しい環境のせいだろうか、昔から争いは戦争ではなく毒殺・暗殺で解決されることが多かった。
先代のサハラーゥ王は特に毒殺を好み、何人もの毒師を召し抱えていた。
カンタレラの『母』もその一人であった。
『母』の使う毒は一風変わっており、たいそう王に気に入られていたと聞いている。
まず、見目の優れた女の赤ん坊を攫ってくるところから『母』の仕事は始まる。
赤ん坊のベッドは、毒草を編んで作られる。
ミルクにも、毒が少し混ぜられる。
弱い子供はそこで死ぬが、生延びた赤ん坊にはまた少し強い毒が与えられる。
生延びたらまた少し毒を増やし、成長すればまた増やす。
そうして、歳が十五になる頃には、血液も涙も身体全てが毒で染まった娘が出来上がる。
彼女たちはそのまま『毒娘』あるいは『贈り物』と呼ばれた。暗殺したい有力者に、妻として贈られたからである。
その身体は全てが毒、触れれば肌から染み渡る。美女の贈り物に喜んだ者たちは、妻を抱くうちにその毒に犯されて死ぬというわけだ。
カンタレラは、中でも『母』の自信作だった。
その身体には、通常『贈り物』に使用されるトリカブトではなく、古代から伝わる特別な毒が使用されていた。
カンタレラ――その味は甘美、その強さは最強。遙か昔から暗殺に使われ続けた毒である。
共に育てられた仲間たちは皆途中で死に、十五まで生延びた彼女だけが『母』からその毒の名を与えられた。
カンタレラは、この年の五月に隣国の王に捧げられる予定であった。
隣国のアレス王は野心家で、サハラーゥの国境の街を狙っていた。
同時に用心深く、彼には何人もの暗殺者が差し向けられていたが、全て失敗に終わっていた。
だから、カンタレラが選ばれた。
何者にも屈せぬ若い王を、彼女ならば殺すことができるだろうという判断だった。
名誉ある仕事である。他の者にはできぬ仕事である。
祖国を守る。戦を回避する。『母』の役に立つ。
カンタレラにとっては、考えただけで身体が震えるほど誇らしい仕事であった。
このために日々毒を飲み、美貌と身体を磨き、あらゆる教養を身につけてきた。
並の女では、アレスは側に寄らせもしないだろう。トリカブトの毒にも、きっと警戒しているだろう。
だがカンタレラは別だった。
彼女は最高の『贈り物』であり、この国を守るはずだった。
だが――
四月、サハラーゥ王が死に、『母』は粛清された。
「貴女はもう自由なのですよ」
砂漠の中にポツリと建つ、小さな石造りの塔。
住み慣れたその塔の一室で、従者の言った言葉が、カンタレラには理解できなかった。
「自由というのは、どういうこと?」
訊き返すと、金の目の従者は困ったような顔した。
「ですから、もう誰にも従わなくてよいということです。幸いこの場所は周囲に隠され、わたくし意外に知るものはございません。どこへ逃げることも可能でございます」
それは、どういうことだろう。
「そんなことより、今日はダンスの練習をしたいのだけれど。彼の国のリズムは難しくて、私はまだ慣れないのだもの」
「もうそんな必要はございません」
「でも、アレスに嫌われてしまうかもしれないわ。できない女を可愛いと思う男も多いものだけれど、あの王はそうではないもの」
ほぼ完璧に踊れる自信はあるけれど、嫁ぐまでにもっと上手くなっておきたい。
カンタレラがそう伝えると、従者は今度は悲しそうに首を横に振った。
「必要ございません」
「でも、来月には私は嫁ぐのだから」
「そのお話はなくなりました。新王は暗殺を好まれません。隣国とは和睦交渉を進めるとのことです」
カンタレラは、黒い瞳をぱちりと瞬かせた。
和睦を結ぶ振りをして、カンタレラたちは隣国に送り込まれるはずだった。それが――
「最早、『振りではなくなった』ということです」
暗い石の部屋の中で、従者の金の目だけが光って見える。
「全て必要ありません。貴女はやっと貴女自身のために生きることができるのです」
その言葉の意味が、カンタレラにはやっぱり理解できなかった。
「自分で兄王を暗殺しておいて、『暗殺を好まれない』も何もないものだわ」
自室で書物を広げながら、カンタレラは毒づいた。
隣の椅子で同じように本を開きながら、『妹』が首を傾げる。
「カンタレラ姉様、暗殺をしないのなら、国の争い事はどうやって解決するのでしょう」
「戦をするのだわ。戦争を。馬鹿げた話だわ」
「それは嫌ですね……。暗殺なら、死ぬのは一人だけなのに」
『妹』は本の続きを取ろうと立上がりかけ、少しよろめいた。カンタレラは彼女を制して自分が本棚に向かう。
『妹』の名前は『愚か』といった。
彼女もカンタレラと同じく、特別な毒の名を与えられている。
その肌は毒の効果で青白く、長く伸ばした金の髪とあわさって、誰もが「守りたい」と感じるような、儚げな空気を全身に纏っている。
彼女の夫となった者はおそらく常にその側にいたいと思うようになるであろうし、それだけ早く毒も利きやすくなる、よい『毒娘』になると思われた。
ただ、少々毒が身体に合わなかったらしく、『愚か』はあまり長い時間立っていることができない。カンタレラは彼女に変わって、面白そうな本を何冊か選んだ。
カンタレラの髪は『妹』とは異なる黒。
肌は砂漠に映える褐色。妖艶なその色は異国の男に受けるはずと、『母』はよく褒めていたものだった。
「姉様、わたしたち、本など読んでいて良いのでしょうか」
「これも大切なことなのだわ。遙か昔、とある王の愛妾は千夜に渡って王に物語を語り続け、その心を慰めたという話もある。私たちには物語を覚えることも必要ということ」
「でも、もう王に嫁ぐことはないのでしょう?」
カンタレラは、本をめくる手を止めた。
「姉様、金の目は『ここを出て自由になってください』と言いました。わたしたち、出ていかなければ」
「それで、どうするというの?」
『妹』は返事をしなかった。
「よく聞きなさい『愚か』。私たち『毒娘』に触れたら、人の命は縮まっていくの。標的以外の人間を殺すべきではないと、私たちは教わったでしょう?」
「でも……では、このままここで朽ちていくのですか?」
今度は、カンタレラが返事に詰まる番だった。
このままここにいて、それで何がどうなるというのだろう。
『毒娘』の寿命は短い。老いて美貌が衰えれば、その存在に意味はなくなる。
「金の目を説得して、新しい主人と新しい標的を探してもらいます。だから、あなたはそのまま待っていて」
『妹』は、今度も返事をしなかった。
カンタレラも黙って、手元の本に視線を落とす。
従者の説得がうまくいくとは、彼女自身もあまり思ってはいなかった。
彼は頑なで、『毒娘』などというものには最初から反対だったと、おかしなことを繰り返すのだ。
意味がわからない。
わかるわけがない。最初から反対されるような存在ならば、カンタレラたちはどうしてここに存在するのだろう。
薄くらい部屋の中に、本をめくる音だけが響いた。
外の暑さも、塔の中にまでは届かない。
表面だけなら、いつもと同じ穏やかな午後だった。
カンタレラの最近のお気に入りは、英雄スラフィス・ランペールの物語。
スラフィスは東の大陸の英雄で、全て実話だとの触れ込みの割に、その物語は荒唐無稽なものが多かったが、面白くて好きだった。
「ねぇ姉様、ドラゴンなんて、本当に存在するものでしょうか」
顔を上げると、『妹』も同じ英雄の本を読んでいて、カンタレラはほんの少し笑みを漏らした。
「私は見たことがないけれど、そのお話の結末はとても面白かったわ。スラフィスがドラゴンの鱗を……」
「姉様! わたしはまだ読んでいないのに!」
憤慨する『妹』の顔を見ていたら、自然に笑い声が漏れた。
思い起こせば、カンタレラがこんな風に笑ったのは『母』が死んで以来のことだ。
この数日間、何か悪い夢の中にいるようで、全てにひどく現実感がない。
「ドラゴンのことはわからないけれど、この物語は全て真実だということになっているし、もしかしたら存在するのかもしれないわね」
「スラフィスも? 本当にこんな魔法が使えるのでしょうか」
「そうね。魔法使いもいるのかも。サハラーゥの王家にも、昔からあらゆる未来を見通す予見者一族が仕えていると言われているし」
「でも、予見者がいても、王は死んでしまいました」
「……そうね」
二人の間に、また暗い沈黙が降りた。
窓の外、どこか遠くで鳥の声が聞こえたような気がした。
気のせいかもしれない。聞こえたところで何の意味もない。
国王は死に、『母』も死んだ。もう、塔の外のことは、カンタレラたちに何の関係もないのだ。
「ねぇ、姉様。もしこの物語が真実なら、この薬も存在するのでしょうか」
『妹』がポツリと呟いた言葉に、カンタレラは顔を上げた。
青白く細い指が、文字の上をそっとなぞる。
「どんな毒でも消してしまう、魔法の毒消し。それを飲めば『毒娘』だって、普通の娘になってしまうと書いてあります」
「そんなもの……」
「ねぇ姉様、わたし、こんなことを言うのはとても悪いことだとわかっているのですが、本当の本当は夫を殺すのはイヤだったんです。だって、物語に出てくる夫婦はみんな愛し合っています。スラフィスだって、愛する妻のためにドラゴンと戦うと」
暗く冷たい部屋の中に、ただ『妹』の声が響いた。
「カンタレラ姉様、この物語が真実なら、わたしはこの薬を飲んで普通の少女になりたい。そうして恋をして、大切な人を夫にするの。それがきっと幸せというものなんですよね? わたし、この薬を探しに行きたんです」
なんと答えればいいのだろう。
魔法の薬など絵空事、物語の英雄など、本当は存在するはずがない。
けれどカンタレラは、『愚か』の瞳が初めて輝いたのを見たような気がした。
「だけど……『愚か』は歩けないでしょう? 東の大陸になんて、きっと行けないわ」
弱い『妹』は、砂漠を越えることさえできないだろう。
「だから……私が、探しに行きます」
万能薬など絵空事、魔法が存在するのなら、国王も死んではいないだろうに。
気がつけば、カンタレラは『妹』の手を取りそう誓っていた。
「あなたはここで金の目と待っていて、このカンタレラが、必ず薬を見つけてくるから」
目的を無くした『毒娘』は、こうして新しい目的のために、長い旅に出ることとなった。