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新・シクラボ短編集

またいつか、逢えるその日まで

作者: 澄鈴亮

偶然夢で見た壮大なストーリーを書き留めてみました。

これを一夜で見たんだからすごい。

今までより大分長めです。

 僕たちはすぐに教室を飛び出した。


 ただ、最初は彼女から電話があるなんて珍しいな、と。そう思って携帯を開いただけだった。彼女は彼と二人で委員会の雑務に出掛けたのだ。二人きりの時間なんだから、のんびりしていればいいのに。なんなら、メールでもよかったのだ。メールではなかったということは、急ぎの用事であり、早急に返事が欲しいということだと理解していた僕は、別段ためらうわけでもなく、そう、ごく自然に。「ああ、ルルからだ」と席を離れた。

 「もしもし、僕だけど」

 何時もののんびりした口調で僕は話しかけた。電話の向こうの声が聞こえないので、おかしいなと思いつつも、僕は再度「もしもし」と問いかけた。すると、僕の声を聞いた電話の向こうの彼女は、突然わっと泣き出した。

 失礼な話だが、僕はこの時にも別段驚いたりはしなかった。彼女は内向的で、臆病な性格であり、泣き出すところは見たことさえないものの、泣き虫なんだろうなという感じはしていたためだ。こうやって理由もわからないまま泣き出されるのは容易に想像出来たのだ。

 彼女は嗚咽混じりの声でこう言った。

 『ニコさんが』

 その瞬間、僕は顔色を変えて教室に戻り、何時ものように駄弁る彼ら三人に緊急事態である趣を短い言葉で言い、無理やり教室を飛び出したのだった。


 僕たちが学校の近くの病院に着いたのは、彼女から電話があって30分が経った頃だった。彼女は、手術室の前の椅子に放心して座っていた。

 僕たちが駆け寄ると、電話の時のようにわっと泣き出した。それをネリーとイリーナが慌ててなだめる。

 「どうしたの」

 僕が端的にしか状況を説明しなかったために、ことの重大さを微塵もわかっていないキリが、僕に説明を求める。ネリーとイリーナも同じだ。

 僕は息を吸った。そして、彼女の代わりに一番わかりやすく、簡潔な事実を述べた。

 「ニコが倒れた」



 ***



 話を聞いていたのは彼のガールフレンドであるルルと、僕だけだった。きっと言いにくかったのだろう。本当は僕にも、何より大切な存在であるルルにも言いたくはなかったんだと思う。

 彼は難病を患っていた。

 僕がそのことを知ったのは、珍しく、何時ものメンバーは部活等で忙しく、彼と二人きりになった放課後のことだ。

 その日は二人でカードゲームをしていた。カードゲームといっても、大抵の人なら知っているトランプの七並べだ。彼が中々続くカードを出してくれないので、僕と彼の手札には、既に大きな差があった。僕が何を出すか悩んでいると、唐突に彼が口を開いた。

 「僕の兄たち、ブラコンなんです」

 「へえ」

 僕はニコに兄がいたことをこの時まで知らなかったが、あえて聞かなかった。

 「ニコのこと大好きなんだね」

 「大好きというよりは、心配性というか」

 彼にしては珍しく、言葉を濁した。彼は僕の置いたカードの隣にキングのカードを置くと、はあとため息をついた。

 「僕ね、入院してたことあるんですよ」

 「怪我でもしたのかい?」

 「大病を患いましてね」

 「へえ」

 「遠足の時でしたかね。歩いて公園まで行く、たいしたことのない遠足でした。僕は友人とおしゃべりしながら、道に咲く花を摘んでは先生に叱られを繰り返して歩いてたんです。…でもね、僕、公園に行った記憶がないんです。途中まで歩いたのは覚えています。でも、そこから先は全く」

 「……」

 「僕、その間眠ってたんです。いや、意識がなかったと言ったほうがいいですかね。急に倒れて、目を覚ましたのが病院のベッドの上。記憶が無いのは当たり前だったんです」

 僕は何か言おうとして、口をつぐんだ。彼は続きを話した。

 「起きたら兄たちがそろってて。ああ、僕の兄たちは滅多に一緒じゃなくて…誕生日以外は。珍しく揃っている兄弟を見て僕は、今日は誰の誕生日だったかな、と考えました。でも、そうじゃなかったんですね。僕の、病気のことを知って。それでみんな集まっていたんです」

 カードゲームはそれ以後進まなかった。僕が真剣に彼の話に耳を傾けていたからである。

 「ニコは、何の病気だったの?」

 聞いてはいけないことを聞いた。少なくとも、この時の僕には尋ねる権利のなかった問いだ。

 彼は少し、ほんの少しだけ顔をしかめて、それから困ったように笑った。

 「対したことじゃなかったんですよ。もう平気ですし」

 そう、治ったのなら良かった。と、僕はそう言った。

 でも僕はその時の話をちゃんと聞いておくべきだった。その時はただ、嘘は言っていないにしても、事の重大さに気づいていなかったのだ。



 ***



 「ニコは、なんて?」

 僕はルルに尋ねた。僕が知っているのは、小さい頃から患っていたことと、それは治っていないこと(もっとも、後者はいま気づいたことだが)だけだ。僕の話を黙って聞いていたみんなの視線は、一気にルルのもとへ移動する。

 「ニコ、さんは…」

 落ち着きを取り戻しつつあるルルは、ゆっくりと口を開いた。


 ルルの話はこうだった。

 ルルがニコに告白して数日後、二人きりで帰宅途中のことであった。唐突に彼は、「ねえ」と声をかけてきたのだ。

 「どうしたの、ニコさん」

 「あのね、ルルさん」

 ほとんど同時に口を開いた二人は、あっと声をあげて、しばらく黙っていた。数分後、もう話を切り出すべきか、と思った彼は、再び口を開く。

 「僕、病気持ちなんです」

 「病気?」

 もちろん、そんな話を聞くのが初めてだったルルはうろたえた。今まで私たちに隠していたのか?と。

 ルルは尋ねた。

 「どんな、病気?」

 「急に心臓が止まる病気」

 「っ、」

 彼女は、そのとき息が止まった、と言う。

 そんなことを言われたら誰だって驚くだろう。まして、めでたくカップルとなりえたばかりの二人である。

 「小さい頃から、よく」

 「……」

 「………なんて、冗談ですよ」

 彼はそう言って笑った。はは、と何時ものように。


 彼女はさぞほっとしたことだろう。めでたく結ばれた最愛の人が、そんな大病を患っているなどという話を聞けば、誰だって不安になる。この僕だってその自信はある。だからこそ、この時の彼女の安心を、僕たち四人は誰一人として責め立てなかった。みんな同じだからだ。

 「ニコさんは嘘つきだったの」

 そうだ、と彼女がつぶやいた。それは僕も知っている。僕でも知っていた。みんな知っていて黙っていた。

 彼は正直者だ。自分の思ったことを嘘偽りなく口にした。ただし、自分のこと以外。彼は確かに正直者だ。けれども、彼自身のことに関しては彼は嘘の塊だったのだ。「なんて、冗談ですよ」と笑うのは彼の口癖だ。その言葉だけで、彼は自身が直前まで語っていたことを全部戯言にした。あり得ない位おかしい話もあれば、笑えるような失敗談だったりした。

 いま思えば彼は、人を傷つけるような嘘など付いたことはなかった。まして、自分が難病を抱えているだなんて、彼女が聞いたら卒倒しそうな嘘など、付くような人間では無いのだ。

 「冗談だって、言ったのが冗談で。冗談だって笑い飛ばしたほうが本当で」

 ああもう、どうして彼は。

 勇気を出して言ってはみたものの、彼女の悲しそうな顔を見てしまったら、なるほど、彼はそうするしかなかったのだった。

 彼は優しい人だった。誰かが傷ついていたら、そっと手当てをしてくれる。何も言わずに、癒すことだけをしてくれる。そんな人だった。

 「ねえ、テル?」

 ずっと話を聞いていたキリが不安そうに僕の顔を見た。僕はなだめるように勤めて優しく笑って、「なに?」と答えた。彼はしばらくううと唸った後、さみしそうな顔をして、独り言を言うような小さな声で言った。

 「ニコは、死んじゃうの?」



 ***



 「ああ、みなさん」

 ベッドの上の彼は何時もの笑顔で僕たちを迎えた。どうしたんだいそんな顔をして、と言わんばかりに明るく振舞って、彼は手を振る。

 「ニコ!」

 怒鳴ったのはネリーだ。

 僕の大切な人であり、5人のお姉さん的存在である。

 「何故私たちに言ってくれなかったんだ! ただの趣味の悪い冗談で済まそうとしたんだ! 大事なことだろ!」

 「…ええと、ですから」

 「馬鹿ニコ! 大馬鹿もの! なんで、なんで…」

 「ああ、」

 泣き出してしまったネリーを、今度はルルとイリーナがなだめる。彼女は共感してくれる優しさを持つ少女だ。きっとルルの不安に共感して、感極まって泣き出してしまったのだろう。

 僕はまっすぐ彼を見た。細い彼の目はどこを見ているのかわからない。ただ、決まりが悪そうに言葉を遊ばせていた。

 「ねえニコ」

 だから僕は言ってやった。

 「疲れが溜まってただけだろう? 何も心配することはないだろう?」

 滑稽なくらい嬉しそうに彼は笑った。そうです。少し、ほんの少し疲れていただけなんですよ。だからもう、大丈夫。ネリーさん、泣かないで。


 ネリーも落ち着きを取り戻し、何時ものように談笑した。さっきまでのことがまるで何もなかったように、彼は元気だった。

 「あぁ、テルさん。少し話したいことが」

 「ああ、分かった。残るよ」

 もう暗くなってきたから帰ろうと立ち上がったところで、彼に呼び止められた僕は、四人に先に帰るよう言った。名残惜しそうにキリがこちらを見たが、「君はいつも遅刻して来るんだから、早く寝ないとダメだろう」と言って諭す。三人の女の子に連れられて、キリも強制退場していった。僕は三人がいなくなるのを待って、改めて椅子に座った。

 「僕になにか話すことなんてあるのかい?」

 僕はふうとため息をした。

 「みなさんに言いました?」

 「言ってないよ。ルルの話だけ。言ってないよ。君が自分の口で言うべきだからね。…ああ、よく倒れる病弱少年だったって話はしたかな」

 彼は「そうですか」と言うと、突然押し黙ってしまった。なんだ、僕に話があるんじゃなかったのか、とは思わない。彼がこれから話そうとするものは、とても言いにくいものだから。僕はそれを知っていた。

 訂正しよう。

 僕が知っているのは、小さい頃から患っていることと、まだ治っていないことと。

 「あと一年だと、言われました」

 「それ」に余命宣告があったことだけだ。


 「……そう」

 僕はそれしか言えなかった。他に何を言えばいいのか分からなかったからだ。

 「あっという間でしたね」

 彼がそう言ったので、僕は頷いた。

 あっという間。本当にあっという間だ。彼には所々の記憶がないから、きっと僕より、ずっとずっとあっという間だと思っているだろう。的確な表現だった。

 「僕まだ18ですよ」

 「うん」

 「正確ですね。二十歳までは生きられないって、そう言われたんですから」

 「そうだね」

 「こんなことならもっと早くみなさんと出会いたかったです」

 「僕もだよ、ニコ」

 「あーあ…」

 彼は残念そうに天井を仰いだ。そうしたのは、目からこぼれる液体を引っ込めるためだと、僕はそう認識した。

 「時間が足りないなあ……」

 「出来ることは、たくさんあるよ」

 「したいことは、あまり無いですからね」

 彼は笑った。僕も笑った。だが、僕たちはさっきのようには笑えなかった。彼のほうは、もう二度とあんな風に笑うことが出来ないのかもしれない。別に僕は気にしなかった。彼がそれでいいのなら、僕はそれでいいと思った。

 「明日兄たちが来るそうです」

 「ああ、ブラコンの」

 「そう、ブラコンの」

 「会ってみたいな」

 「明日で取り敢えず退院しますから、すれ違いにはなるでしょうね」

 「ふむ、じゃあ放課後には間に合わないかな」

 彼は末っ子で、年の離れた五人の兄と姉がいるらしい。

 あと一年。それは、家族にとっても残酷な予言だろう。まして、そこまで彼を愛しているのなら尚更だ。

 「残りの時間を、なるべく一緒に過ごしたいって、言ってくれましたよ」

 目が覚めてすぐに電話をしたんです、と彼は言った。

 残りの時間。

 今もなお削られて行くその時間を、彼はどう使うのだろう。

 「ちゃんと言うんだよ。なるべく早めに」

 誰に、とは言わなかった。彼もわかっていると思ったからだ。

 「ええ、わかってます。…ごめんなさい」

 彼は謝った。

 冗談で済まそうとした。冗談では済まなくなってしまった。

 ああ、確実に僕らは心に傷を負うであろうな、と僕は思った。



 ***



 次の日先生はHRで「ニコは疲れが溜まっていて倒れただけらしい」と、みんなに伝えた。

 「今日は休んで、明日からまた学校へ来ると言っているよ」

 その言葉に、僕は複雑な思いを抱いたが、僕以外のみんなはほっとしたように見えた。

 ルルだけはなんだか表情が晴れなかった。


 放課後、ニコを抜く僕たち五人は、いつものように集まった。

 「よかったね、明日から来るって」

 口を開いたのはイリーナだった。

 「うん、よかった。本当になんでもなかったんだね」

 僕はそう言った。なんでもないと。彼と同じように嘘を付いた。

 だがネリーもキリも、僕の嘘は見抜けずに、ほっとため息をついて笑顔を見せる。早くニコに会いたいなどと言うキリに、昨日ちゃんと会ってるでしょとイリーナが突っ込む。それを見てネリーがまたくすりと笑った。僕も目を細めた。一人欠けてはいるが、明日またいつものようになれる。なんでもない一日に戻る。それを信じていた。

 一人を除いて。


 「ルル」

 僕は解散した後、わざとルルを呼び出した。

 「僕に聞きたいことでもあるの?」

 さも彼女のほうが僕に用があるかのように言って、僕らは二人きりの教室に取り残された。

 ルルは「あう、」と困ったように眉を下げ、おろおろと周りを見回す。僕は、机の上に腰掛けるという、いつもの優等生らしからぬ行為に及んで、彼女の次の言葉を待った。

 「あのあと、ニコさんと、何を、話したんです?」

 単語をぽつぽつと口に出す話し方は、彼女特有の癖だった。話すことが苦手で、どうしてもそういった話し方になるらしい。今ではもう慣れた、そのたどたどしい質問を最後まで聞いて、僕は優しく微笑む。

 「今日が退院だって。それで、お兄さんとお姉さんたちが来るって。それだけだよ」

 「……そう、……なの」

 安心したように彼女は呟いた。

 僕は、意地悪をしたくなった。

 「…ねえ、僕、嘘を付いたよ」

 彼女ははっとして僕を見た。僕はそのまま続ける。

 「嘘を付いた。でも僕は真実を言わない。君が直接ニコに聞くべきことだから、僕は言わない」

 「……でも」

 「ねえ、ルル」

 またおろおろし出す彼女に、僕は息を吸って、冷淡な声でこう続けた。

 「時間の無駄だよ」


 「え?」

 彼女は聞き返すしかなかった。それはそうだろう。僕の言葉の意味を、今の彼女は理解できない。

 「だから、時間の無駄だよ」

 僕は全く同じ言葉を繰り返して言った。

 「僕と君がこうして二人きりで過ごす時間は、全く持って時間の無駄だよ。いいかいルル、僕らの時間は永遠じゃない」

 永遠じゃない。そう、永遠じゃない。だから、終わりがある。

 不可解なことを言う僕の真意を探ろうと顔をしかめる彼女に、僕はまた言葉を続けた。

 「まして、その時間は人によって長さが違う。カメの時間とネズミの時間の長さが違うようにね。人だっておなじだ。極端に短い人だっている」

 間接的に彼のことを言ってしまっている。僕は口をつぐもうかと思ったが、やめた。彼女は察しはよく無い方だ。ただの例え話として流すだろう。

 「君は僕と過ごす時間を、別に回すべき人がいるだろ?」

 彼女ははっとして僕を見た。

 そこまで言って、彼女はようやく僕が言わんとしていることがわかったようだ。

 「君はニコの彼女だろう」



 ***



 次の日ニコはやってきた。なんでも無い風に。あと一年の命なのに、なんでも無い風に。

 「ニコ」

 僕は真っ先に声をかけた。

 「ああ、テルさん。おはようございます」

 「調子はどう?」

 「まあ、ぼちぼち」

 「お兄さんたち、やっぱり来てくれた?」

 「こっちでも仕事ができるようにっていろいろ大荷物を持って来ましたよ…」

 僕の部屋は1人用なのに、とニコは不満そうに口を尖らせる。だが、それでも嬉しいのだろう。いつもより少し明るい表情をしていた。今の彼には、小さな幸せを噛みしめることが、たまらなく嬉しいのだろう。

 僕は、よかったね、と言って微笑んだ。

 しばらく経つと、いつもの仲間がぞろぞろと揃って来た。また、なんでも無い話をした。

 彼はとても幸せそうだった。



 ***



 高校生活最後のなになに、と、もう高3にもなるとイベントのすべてにおいて「高校生活最後の」という枕詞が付いて回るようになった。

 この間も「高校生活最後の」遠足へ行ってきたところだ。

 「あそこでキリが転ぶんだもん、びっくりしちゃったよ」

 「その瞬間に外人がoh!って言うもんだから二重に面白かったですよね」

 まだ遠足というイベントの熱が冷め切らない僕たち六人も、帰ってきてからというものその話ばかりしていた。

 「そういえばあそこの団子はとても美味しかったな、誰の希望だったんだ?」

 「ああ、あれは僕ですよ」

 「やーんさすがニコ! 見る目ある?! 買ったお土産大絶賛だったよ!」

 「えぇ!? 俺あの店のお団子食べられなかったー!!」

 どうやら今度はお土産の話をしているらしい。僕はみんなで話しているのを聞いているだけで満足するので、いつもただ頷いているだけだが、なかなかどうして十分楽しい。

 ふと隣を見ると、ルルも一歩引いたところでみんなの会話を聞きながら、楽しそうに笑っている。どうやら彼女も僕と同じようなタイプのようだ。ルルがこんな風に笑顔を見せるのは、少なくとも僕は六人一緒でいるところでしか見たことがない。

 「また六人でどこか行きたいね」

 僕はそう言った。みんなも笑顔でそうだねと頷いた。

 ニコは笑ってはいたが、何も言わなかった。



 「テルさん」

 ふとニコに呼び止められて、僕は振り返った。

 日が暮れるのが遅くなってきたために、つい学校に長居してしまう。部活の助っ人はするが、全員無所属の帰宅部なので、放課後はこうして集まって他愛の無い話をしたり、カードゲームをしたりしているのだ。

 「話したいことがあるんです」

 「テルばっかりズルい! 俺もニコとしゃべりたい!」

 わがままを言うキリを困ったように笑ってあしらいながら、ニコは僕の返事を待っていた。

 僕は正直乗り気ではなかった。

 「いいけど、ルルはいいの? 今日は一緒に帰らなくても」

 「へ、ぇ…あ、へいき、です。ニコさんが、テルさんと、お話、したい、なら…みんなと、帰り、ます」

 僕はわざとルルに振ったが、彼女は特に気にしていないようだ。

 「僕もネリーと帰りたいんだけどな」

 「お、おい、テル……! て、照れることを言うな…っ!」

 可愛いネリーは顔を真っ赤に染めてうつむく。特に雰囲気も何も無いところでも、ネリーはこうして可愛らしい反応をしてくれるので、僕は素直に嬉しく感じる。

 だが。

 「彼」が自分から話したいと言う時は、大事な話をすることが多い。もちろん指名されたのが僕1人だ。みんなには言いにくいことなのだろう。僕が悪態をついた瞬間の、ほんの少しだけ顔を曇らせたニコのことを思うと、おのずと優先事項は明確になる。

 「…まあ、いつも一緒に帰ってるし。今日くらいはニコに付き合うよ」

 「すみませんね、ネリーさん」

 「ああ、いいぞニコ。私たちはいつも一緒に帰ってるからな。今日一日くらいなんでもないぞ。気にすることはない」

 普段は厳しいネリーだが、友人の珍しい頼み事には寛容だ。ただ話したいだけなのだから、彼女にも嫌と言う理由はない。

 「へぇ?? 男二人で内緒話なんかするのお? あっやしー」

 イリーナが僕たちをからかうが、いつものことなので僕は笑って受け流した。彼女は頭はいいけれど、思ったことを遠慮なくズバズバと言ってのけるので、いちいち気にしていたら神経がすり減ってしまう。だから、適度に流すという対応の仕方を、僕は自然と身につけた。直させるほどのことでもないし、裏表が無いのは彼女のいいところだと僕は受け取っているので、今も変わらずそのままだ。

 「はは、今度六人で行く小旅行の前相談をしようと思いましてね」

 「なあんだ、そうなの。前相談ならボクたちがいない方がスムーズに進むよね。キリみたいにあっちに行きたいこっちに行きたいって言ってたらキリがないもん!」

 あ、ボクうまいこといった! とはしゃぐイリーナにむくれているキリを、ネリーがそっとなだめる。キリとイリーナはまだ恋仲でこそないが、それくらいには仲がいい。

 「行き先は2人に任せたよー!」

 「また明日な」

 「俺遊園地! 遊園地考えといてね!」

 「お先に、失礼、します」

 四人はガラガラと扉の音を立てて、談笑しながら先に帰って行った。

 「病院以来だね」

 僕は帰っていく四人を見送りながらそう呟いた。

 「話したいことって何?」

 彼が言った旅行の前相談などという建前を、僕は全く信じていなかった。

 彼は嘘をついた。なら本当は何を話すのか? 答えは簡単だ。彼は自分のこと以外で嘘を付くことなど無いのだから。


 「出来ないことが多くなって来るのはさすがに怖いですね」

 「そうだね」

 四人を見送った後、僕たちは二人で帰路についていた。

 ふと独り言のように呟く彼に、僕は相槌を打つ。

 「もう体育は見学しか出来ませんよ」

 「…そうだね」

 「…もうすぐ夏ですね」

 「…うん」

 「文化祭は、出来ますかね」

 「出来ると思うよ、僕は」

 「あぁ、六人でどこか、行きたいですね」

 僕は足を止めた。

 僕が言ったことと同じことを、僕とは違う思いで口にする彼。

 「…早めに行こうね」

 僕はなんて冷酷な奴なんだろう。あんなことを、平気で言えるなんて。

 「ふふ、そうですね」

 彼は、笑ってくれた。



 「テルさんは、ルルに何か言いました?」

 「うん?」

 質問の意味がよく分からなくて、僕は聞き返した。

 「四六時中ルルがそばにいてくれるんです」

 ああ、と僕は言う。「よかったじゃない」「ええ、嬉しいです。でも、」

 ニコは沈んだ声で言う。

 「僕まだ、言えてない」

 「……そう…」

 彼女は病気が治ったと、そう思っているのだ。そしてこの間は、ただ疲れが溜まっていただけ。

 「でもルルは、そんなに馬鹿じゃないよ」

 「…ですね」

 「嘘を付くのはもうやめよう。その嘘は誰も幸せにしない」

 「……」

 ごめんね、ニコ。僕は言いたい。君の口から言って、と。何度だって。

 僕が言うのは簡単だ。僕がそう言えばいい。ただそれだけの事なのだから。

 でもそれは、違うんだ。

 「3人にもとは言わないよ。ルルには、ルルにはちゃんと言うべきだよ。ルルは……」

 「僕、病院が嫌いなんです」

 僕の言葉を遮るように、彼は言った。僕は責めなかった。ただ、黙った。彼の話を聞こうと思った。



 「最初に倒れた後、入院生活が始まりました。僕は病院から一歩も外に出られなくなりました。最初のうちはとてもわくわくしてたんです。幼かったので、非現実的な世界に放り込まれて、僕は何があるんだろうと思いました」

 「うん」

 「……でも、何もありませんでした。小さい子が、当時の僕が楽しみにしていたようなものは何も。それは当たり前ですよね、病院ですもの。……代わりに一つだけあったものがあります」

 「それは、」

 「死ですよ、テルさん」

 「……」

 「僕が放り込まれた病棟は難病患者が集められたところでしてね。毎日のように人が死んでました。僕は……僕はここにいたら死ぬと思いました」

 「……」

 「何度も何度も脱出を試みて、発作を起こして、倒れて、またベッドに連れ戻されて、また脱走して、また倒れて、また……」

 「地獄だね」

 僕は口を開いた。

 無限ループ。果ての無い輪廻。

 生き地獄だ。

 「まさにそれです。終わらない悪夢でした」

 ニコは頷いてそう言った。

 「そうしていると、どうしてそんなに外に出たいのかと兄たちに尋ねられました。僕は言いました。ここにいたら僕は死ぬ。二十歳になるよりもっとずっと前に僕は死んでしまうと。……怖かったんです。一月前から話し相手だったお兄さんがさっき死んだという知らせが。先週仲良くなった男の子が週明けに死ぬ病棟が。昨日リンゴをくれた隣のお姉さんが今日死ぬ現実が」

 僕のいた世界は、死がすぐそこにあったんです。


 「ニコ……」

 僕はひどい顔をしていただろう。

 「……なーんて……」

 冗談ですよ、と言おうとして、彼はやめた。

 僕のせいか。

 僕がひどい顔をしていたから、ニコはまたそれを嘘にして、冗談にして笑い飛ばそうと、そうしようと。

 「ごめん」

 「……」

 「ごめん、ニコ。僕、君のこと全然知らなかった」

 「……言って、ませんでしたから」

 「ごめん……」

 僕らはまた立ち止まった。すぐそこに病院が見える。彼がこの間運ばれた場所。一晩を過ごした場所。

 ……地獄のあるところ。

 「行こうね、旅行」

 「…ええ……」

 「色んなところに行って、美味しいもの食べて、いろんなゲームして、いろんな話して、それから……」

 僕はうつむいた。どこへ行こうか。せっかくならニコが行きたい場所へ連れて行ってあげよう。どんなに遠くても、連れて行って、そこで、たくさん思い出をつくって……。

 「やりたいことが多いな」

 「……あぁ、もう……時間が、足りない……な……」

 「ねえニコ、」

 僕は顔を上げた。息を飲んだ。

 ニコが倒れる瞬間を見た。


 ニコは、どこに行きたい? と、言いたかったのに。



 ***



 病院の近くまで来ていて助かったと心底思った。

 僕は酷く混乱した頭で、等身大の人形になったニコを背負い、病院まで走った。救急車を呼ぶよりそのほうが早いと思ったからだ。院内に入るとすぐに、ニコのことを知っている医者に出くわしたのも不幸中の幸いだった。彼は錯乱している僕と、その背中にいる青年を見るなり、すぐに手配をしてくれた。

 僕は今まで感じたことのなかった、「恐怖」という感情を知った。

 息をしていない。鼓動が感じられない。さっきまで話していた親友が、死んだのと同じ状態で。

 『急に心臓が止まる病気』

 彼がルルに言ったことは、全て嘘偽りない本当のことだった。

 ルルが電話で泣いたのも、僕たちに会って泣いたのも、今の僕には理解できた。僕もまた、泣きそうだった。

 彼の残りの時間が少なくなっていることに、気付きたくなかった。



 手術室のランプが点いてしばらくしたころ、僕はようやく落ち着きを取り戻し始めた。そして、みんなにこのことを伝えなければいけないと思い、まだ震えている手で携帯を取り出した。

 僕は真っ先に、そして無意識にルルのアドレス帳を開いていた。

 『もしもし?』

 数回のコールの後の、不審そうなルルの声。

 『え、ええと……テルさん……?』

 僕は泣き出した。


 それからしばらく経って、四人が慌てた様子で駆け込んで来た。無言でぼろぼろと泣いている僕を見て、

みんなぎょっとしていたが、すぐに僕に駆け寄ってくれた。

 「テル…なにが、なにがあったんだ?」

 「泣かないで、泣かないでテル。大丈夫だよ、大丈夫」

 大丈夫だって? 何が大丈夫なものか。僕は見てしまったんだぞ。僕は知ってしまったんだぞ。

 「テルさん、落ち着いて、今は、落ち着いて」

 深呼吸をして無理やり感情を沈めた僕は、ルルを見た。

 「ニコは、なんて?」

 この間と全く同じ質問だ。

 ルルは困ったように視線を落とす。

 「……特には、何も……」

 それはそうだ。さっきまで彼と一緒にいたのはこの僕だ。彼女が知るわけがない。

 「ね、ねえ、ニコは? どうしてテルはここにいるの? 何があったの?」

 状況を少しも飲み込めていないキリは、おろおろとした様子で僕とルルを交互に見た。

 僕はしばらく悩んだ後、こう言った。

 「ニコが倒れた」



 ***



 その日、ニコに会うことはできなかった。だいぶ遅い時間まで手術室の前で待ったが、ランプが消えることはなかった。看護師さんが「学生はお家に帰りましょうね」と促した。「お友達は先生が助けてくれるわ」

 ただ待つことしかできない僕たちは、その言葉を信じることにし、病院を後にした。

 「ねえ、テル?」

 「なあに、キリ」

 「ニコ、遠足で疲れちゃったのかな」

 僕は足を止めた。みんなも足を止めた。キリは頭が良くないけれど、とても心根が優しく、気配りが出来る子だった。きっと彼はニコが言ったことを信じているのだろう。彼は疑うことを知らない。信じることを知っている子だった。

 僕は返事に困った。なんと言うべきなのか。

 「きっとそうだよ」

 イリーナが言った。

 「疲れていただけだよ。ね、テル」

 真っ直ぐな瞳で僕を見た。どうか、今だけ嘘をついて。もう一度だけでいいから。賢い彼女の目は、そう言っていた。

 「うん、そうさ」

 僕は迷わずそう言った。「そうだとも」

 キリは「そっか」と言って、しばらく口を閉じた。

 「早く元気になるといいね」

 純真な彼は、そう言って笑った。僕もそう思った。



 ***



 手術が終わった後も、彼に会うことはできなかった。

 面会謝絶。

 受付に行っても、そう言われるだけで、彼がどうしているのか、どこにいるのか全く分からない状態が続いた。

 「こんにちは、君が…テルくんかい?」

 そんな時だった。彼のお兄さんを名乗る人物が現れたのは。


 僕はすぐに四人を家に呼んで、一緒に話を聞くことにした。ルルのところにもそのお兄さんは行ったようだが、ルルが「先にテルさんの方へ」と言ったらしい。この人のことを知っていると思ったのだろう。もちろん、僕はこの人のことを何一つ知らない。

 「ええと、名乗ったほうがいいかな。俺はアルト。上から5番目、ニコの兄です」

 話によると、アルトさんは大学院生らしい。ただいま就活真っ只中だという。ニコのことをお兄さんに聞いて、研究も就活もほぼ全て放置してすっ飛んで来たらしい。

 僕たちは一人ずつ名乗った。どうやら僕はニコにとって「親友」という位置づけだったらしく、アルトさんは僕のことをよくニコから聞いていたようだった。

 こんな時でなければ、すごく嬉しかったのにな、と思いながら、僕は知っていることを全て話した。みんなの前で、だ。全て。余命のことも、全て。

 もちろん僕は怒鳴られた。何故黙っていたのかと、何故言ってくれなかったのかと。けれども僕は謝らなかった。「黙っていたのは、嘘を付いていたのは、ニコだよ」冷徹に、そう言った。

 アルトさんは今のニコの状況を説明してくれた。

 彼はICUに入れられていた。集中治療室。一般的に、重病患者が入るところだ。

 「そんなに悪いんですか?」

 聞いたのはネリーだ。

 「ああ、手術のあとからずっと眠ってる。まだ目が覚めないんだ」

 「そう、なんですか……」

 ネリーは悲しそうに俯く。

 せめて僕がきちんと言っていれば、こんなことにはならなかったのかな。

 「ニコのやつ、友達には言えないって言っててさ。大切な友達ならちゃんと言いなって、姉さんたちも言っていたのに。……とりあえず、今のニコは何も言えないから、俺が君たちに話しに来たというわけ」

 「わざわざ、ありがとうございます…」

 「言うべきだからね。ただ、ちゃんと自分の口から言わせるべきだった。ごめん」

 アルトさんは、頭を下げた。彼が悪く無いことは、この場にいる全員が知っていた。けれども、誰も何も言わなかった。



 「ニコの目が覚めたら、すぐ連絡するよ」

 そう言って、僕たち五人全員の連絡先を聞いて、アルトさんは去って行った。

 「テル」

 アルトさんが見えなくなった途端、ネリーが鬼の形相で僕を睨む。

 「僕は悪く無いよ」

 「そういうことじゃないだろう!」

 咄嗟に言った一言は最低だった。

 「ニコのことを思うなら、私たちのことを思うなら、病気のことは言わないまでも、嘘を付く必要なんてなかっただろう!」

 「……テル、酷いよ……」

 イリーナが呟く。

 「どうしてあの時、『そうさ』なんて言ったの? どうして? もうキミは知ってたんでしょ? どうしてあんなことが言えたの?」

 責めるように彼女が言う。

 だって、あの時は、君が。

 『疲れていただけだよ。ね、テル』

 キリを傷つけないようにと。そう、目で言ったじゃないか。

 「どうしてそう僕ばかり責めるの? 僕はニコの意思を尊重しただけ……」

 「酷い、酷いよテル! それじゃあまるでニコのせいみたいじゃない! ニコのこと励まして、一緒に言うよ、とか、言ってあげたの? ねえ、テル!」

 「……それは言ってないよ。でも、言った方がいいよとは、何回も…」

 「それで言えるわけないでしょ!!」

 「じゃあ僕が悪いんだろう。それで満足かい? そうだよ、全部僕が悪いよ僕が僕のせいでニコが」

 「やめてよ!!!!」

 僕とイリーナの口論に割って入ったのはキリだった。そういえば彼はアルトさんから話を聞いていた時も、終始ずっと下を向いていた。今日口を開くのは、アルトさんに名前を言うのを除けば、初めてだった。

 「やめてよ……。ケンカなんて、しないでよ……」

 いっぱいいっぱいだったのだろう。彼は耐え切れず泣き出してしまった。一歩引いたところでずっと黙っていたルルと、イリーナが代弁してくれたおかげで落ち着きを取り戻したネリーが、キリを励ます。

 「ごめん」

 イリーナが俯いた。

 「言い過ぎた」

 それでも納得できないようで、彼女は不服そうな顔をしてむくれている。

 僕のせいで、ニコが。

 僕は、僕が自分で言った言葉に酷く傷つけられた。胸に鋭く大きな刃が刺さった。痛かった。

 僕が何か言うことでできたことはあったんじゃないのか?

 ニコが無理をしてまで学校に来る必要だって無かったんじゃないのか? ニコが辛い思いをしなくて済んだんじゃ無いのか?

 「いいや」

 僕は俯いた。

 「やっぱり僕が全部悪いよ」



 ***



 アルトさんから連絡が来たのは、それから二週間が経ったころだった。つまり、彼はその間ずっと眠っており、二週間の記憶が無いということになる。

 ひとまず峠を越したと判断されたニコは、ICUから一般病棟へ移されたそうだ。移動はそれなりに負荷が掛かるので、目が覚めてもしばらくは会えないだろうと言われた。それでも、一日か二日後、様子が落ち着いたころに呼ぶと言われたので、僕はほっと息をついた。

 最悪、あれからもう二度とニコに会えない可能性だってあったのだ。

 まだまだニコと話したいこともやりたいこともある僕たちにとってそれは、今の状況で、何より嬉しい知らせだった。


 「今日だね」

 イリーナが最初に口を開いた。ニコを除くいつもの五人は、あれからも、放課後にはずっと集まっていた。ただ、何を話すまでもなく、集まって、無言の時を過ごして、帰っていた。

 それが今日、破られたのだ。

 ニコが一般病棟に移されたその二日後の今日、アルトさんから再び連絡があった。

 「ニコも落ち着いたし、君たちに会いたがっているよ。早ければ今日にでも、来てくれると嬉しい」

 こうしてイリーナが言うということは、僕の携帯にだけでなく、五人全員の携帯に一人ずつ連絡を入れたのだろう。アルトさんは真面目な人だなと思った。

 「行くでしょ?」

 「ああ、行くに決まっている」

 「俺も行くよ」

 「もちろん、わたしも、」

 一斉に四人が僕を見た。

 僕は俯いた。

 「…僕は…………行かない」

 「なんで!?」

 またイリーナが声を上げる。この間とおなじだ。あれから彼女はちっとも僕を許してくれない。僕も許しを請うことはしなかった。僕たちの間には、亀裂が入ったままだった。

 「そんなこと言うなよ、テルも行こう。ニコが待ってるだろう?」

 「ニコは僕なんか待ってないさ」

 「何を言ってるんだよ、テル! テルも一緒に行こうよ、六人揃って俺たちでしょ?」

 「行かないよ…」

 「テルさん、行きましょ…あなたは、ニコさんの、たいせつな、友達、でしょう…?」

 「…行かない」

 「なんでそんなこと言うの! みんな行こうって言ってるじゃない! ニコだって待ってるのに!」

 「ああ、もう、」

 僕はもう嫌になって首を振った。四人は驚いたように僕を見る。

 「無駄だ、無駄。時間の無駄だよ。僕は行かないって言ってるだろ。行かないって言ってる薄情者なんか置いてってニコのことを考えてあげなよ。時間の無駄。無駄に出来ない時間を僕のために無駄にしてる。君たち全員無駄にしてる。時間は有限なんだ、限りがあるんだ、1秒だって無駄にしたらいけないんだよ。こうしてる間にまた発作が起きたらどうする? 今度こそもう会えないかもしれないよ? いいからもう行きなよ。もう行きなよ!」

 僕は教室を飛び出した。

 誰かが何か言った気がしたが、僕は振り返ることもしないで、ただ、走った。

 僕は行きたく無いんだ。

 僕はもう会いたく無いんだ。

 もう二度と会えないほうが良かった。

 「僕だって会いたいよ!」

 だけど僕は、僕は、僕のせいで、彼は。

 ニコに会いたいと思っていた。アルトさんから連絡が来るまでは。ニコに会えると分かった瞬間、彼にあった時のことを思った。

 僕は、何も言えなかった。

 そんな僕はもう、彼に会う資格なんかなくて。彼の友達を名乗る資格なんかなくて。

 僕は、

 僕は。

 「うわあああん……嫌だよ、嫌だよ……ニコが死ぬなんて嫌だよ……」

 ニコが目の前で倒れたあの日から、怖くて、怖くて。

 一番怖いのは彼自身なのに、僕は必死で目を逸らして、見えないように目を塞いで、聞こえないように耳を塞いだ。

 「そんな僕に、資格なんてある?」

 「それを決めるのはお前じゃないだろ」

 僕が目を開くと、真っ先に写ったのは僕の彼女だった。

 彼女は僕を追いかけて来たのだ。

 「お前にニコに会う資格があるかないかを決めるのは、お前じゃないだろ。お前にニコの友達である資格があるかないかを決めるのは、お前じゃないだろ」

 「……」

 「お前じゃなくて、ニコだろ」

 「……」

 「行って聞けよ。それからうじうじすればいいだろ」

 「……」

 「……全く。お前は、本当に泣き虫なんだから」

 彼女は、汚い僕を、そっと抱きしめてくれた。



 ***



 「ああ。来てくれたんだ。どうぞ、いらっしゃい」

 教えてもらっていた病室に真っ直ぐ向かってノックをすると、アルトさんが出迎えてくれた。彼は僕たちが揃っているのを確認すると、嬉しそうに微笑んで、ドアをさらに開いた。

 「ニコ、友達が来てくれたよ」

 そう言って僕たちを通すと、気を使ってか、そのまま彼はドアの向こうへ消えてしまった。やはり、僕と違って気さくな人だ。彼をお手本に生きて行きたいと僕は思った。

 「わあ、ほんとにすぐ来てくれたんですね」

 嬉しいです、と彼は笑う。

 僕は目を見開いた。僕の最後の記憶にいた彼は、こんなに細く儚かっただろうか? この三週間の間に、彼は随分やつれたように見えた。それは他の四人も同じで、しばらく声が出ないようだった。

 ようやく記憶の書き換えが終わり、身動きが取れるようになった僕は俯いた。

 「その」

 ネリーが言葉を探して目を逸らす。

 「痩せたな、ニコ」

 「はは、そうなんです。ひょろひょろになってしまって」

 ニコは乾いた笑いをして、自分の腕を見た。元々細い方だった彼はよく、ちゃんと食べているのか心配されていたが、今はそれの比ではない。細過ぎだ。ほとんど骨だった。

 「これじゃあ男らしさのかけらもありませんね」

 「……、」

 ニコがルルに微笑みかける。ルルは何かを言いかけて口を開けたが、声も出せずその口は再び閉じてしまった。

 それからしばらく、沈黙が続いた。5人分の椅子が無いので、僕たちは全員突っ立ったまま、長い無音の時間を過ごした。

 ふと、彼が再び俯いて、消えそうな声で言った。

 「……ごめんなさい」

 何に対する謝罪なのかは、考えなくても分かっていた。

 「アルト兄さんが話したと、そう聞きました。……黙っていて、嘘を付いて、……ごめんなさい…」

 誰も、何も言わなかった。

 「どうしても、どうしても言えなかった。言えなかったんです、冗談にしないと。僕、僕は……あ、ぁ……ごめんなさい……」

 「ニコさん」

 うずくまる彼に、とうとうルルが駆け寄った。彼女は彼の肩を抱くと、優しく撫でた。

 「いいの、言いにくいの、みんな、分かってるから……謝らなくて、いいの。わたしも、ごめんなさい。言わせて、あげられなくて。ちからに、なれなくて…」

 彼女は僕と違った。彼女に話していれば、きっと彼はこんなに悩まなくて済んだのだろう。

 二十歳までには死ぬと言われて。あと一年だと言われて。どれだけ苦しかっただろう? どれだけ辛かっただろう? それを僕は、突き放し続けていたのだ。

 僕は何も言えなかった。痩せこけた彼に繋がる点滴の、雫が落ちる様子を、ただじっと、じっと見つめているだけだった。

 雫が落ちて行く様が、まるで、彼の命が少しずつこぼれ落ちていくようで、僕は、目を離すことができなかった。


 「テルさん、ルルさん」

 名残惜しそうに名前を呼ばれた。

 僕たちは結局、何の会話もできなかった。僕たちのほうが何も言えなかったのだ。キリがやっと絞り出した声で、「また明日も来るから」と言ったのを合図に、解散する流れになった。

 ルルはまだ彼の隣で肩を抱いていたが、帰ろうと思っていた僕はびくりを体を強張らせた。

 今日だけは、呼ばれたのが僕だけじゃなくて良かったと思った。

 イリーナは僕が呼ばれたことを不満そうにしていたが、ネリーに背中を押され、3人で部屋を後にした。

 「ねえニコ」

 僕は何かを言われる前に口を開いた。

 「どうして僕には言ってくれたの?」

 僕が不思議で仕方なかったこと。

 僕のことを、親友だと、そう話していたという彼。そんな彼を、追い詰めていた僕。

 「僕は、僕は君の友達でいていいの?」

 「…何を、言うんです?」

 彼は心底わけが分からない、といった顔をして、怪訝そうに僕の顔を伺う。さっきまでの、うじうじしていた僕を知っているルルは、何も言わずにいてくれた。

 「僕は君を追い詰めた。突き放していた。君に寄り添うことをしなかった、下劣な奴だ。そんな僕に、君と会う資格はある? 君の友達だと名乗る資格はある?」

 「……あなたは、」

 「僕のせいで、君の病気は悪くなってしまったんじゃないの?」

 僕は顔を覆った。とてもまともに話せる心の状態ではない。まして、こんなになってしまった彼を目の前にして。

 僕は過去の自分を呪った。どうして何か言ってやれなかったのかと。

 しかし、そんな僕と対照的に、彼は呆れたようにあからさまに息を吐いた。

 「あなたは、馬鹿だ」

 「……」

 「僕の病気は悪くなるものでした。こうなった原因は僕が病気にかかったからで、あなたは関係ない。あなたは僕を追い詰めてしまったと思っているようですけれど、あなたは正しいことを言っていただけです。ウジ虫だったのは僕のほう。勝手に悩んだのは僕のほうですよ。それとも何か、自分のせいにすれば僕が喜ぶとでも?」

 「……そう、かもしれない」

 「あなたが楽になりたかっただけじゃないですか。僕はあなたのせいだとも思ってませんし、思えません。こうなるのは必然で、言わなかったのは僕の責任。全部あなたのせいだとしたら、僕は、あなたをとっくに」

 殺してますよ。

 そう、彼は、その細い目を微かに開いて、言った。酷く冷たい目だった。

 それが僕にはとてもありがたかった。

 「……ありがとう、ニコ」

 「誰が何と言おうと、あなたは僕の大切な友人です」

 「……うん」

 「僕の友人を悪く言うのは、誰であろうと許しません」

 「……わかった」

 「自分のせいだなんて、虫唾が走るようなこと、もう言わないでください。あなたは僕の首を絞めたりしない。そうでしょう?」

 「うん…っ」

 僕は彼の胸に飛び込んだ。飛び込んだと言っても、彼の体に負担が無いよう、そっと抱きしめただけだが。

 細い体を、ぎゅっと抱きしめると、心臓がゆっくりと動いているのがわかった。少しだけ、彼が目の前で倒れた時のことを思い出して、その音を忘れないように、気をつけて聴いた。

 「よしよし、もう、大丈夫ですよ」

 「……う、うう、ぐす」

 「もう、泣き虫なんですから」

 ニコはふふ、と笑った。ルルもそれを見て笑った。

 僕は泣いた。

 泣き虫だけれど、強がりな僕にしては珍しく、声を上げて泣いた。


 「僕、もう外に出られないんです」

 僕が泣き止んだころ、彼がそう口を開いた。僕は驚かなかった。むしろ、彼のこの骨のような身体を見て、それでもまだ元気に外へ出かけられると言われたほうが驚くほどだった。

 「そう」

 僕はそれだけ言った。

 ルルは、黙ってうつむいていた。

 「別に、さっき言えばよかったんですけどね。隠すまでもないことですし」

 「そうだね」

 「明日にでも言いますよ」

 「じゃあ、僕が前もって言っておくよ」

 彼は目を丸くした。僕がそんなことを言うとは思ってもいなかったのだろう。

 しばらくあって、「じゃあ、」と彼が言う。

 「お願いしましょうかね……。もちろん、僕からもちゃんと言います」

 「……うん。一緒に、言おう」

 罪滅ぼしなのかもしれない。僕が今まで彼を突き放した分の、罪滅ぼし。今となってはもう、遅いけれども。しないよりかは、遅い方がよかった。と、僕は思った。

 「仮に、外に出られるとしたら、」

 唐突に口を開いたのはルルだった。

 「車椅子、でも、使いますか?」

 「ああ」

 そうですね、と彼は頷いた。

 「もし仮に、許可が下りたら、ですね」

 この足じゃもう歩けませんから。

 自嘲気味に彼は笑ったが、その足がどんな状態なのか、僕とルルには分からなかった。柔らかい布が覆いかぶさって、隠されている足は、きっとその腕のように、やっぱり細くもろくなっているのだろう。

 「そうだ二人とも!」

 突然彼が大きな声を出したので、ルルはびくりと身体を強張らせた。目を丸くして彼を見る。あまりに唐突な出来事だったので、さぞ驚いたことだろう。

 しかし彼は、そんな彼女に目もくれず、興奮気味に言った。

 「僕、僕頑張りますから! 頑張りますから、許可が出たその時は、何処かへ遊びに行きましょう! 旅行とまでは言いません、言いませんけれど、少しだけ遠出をしましょう! いいですよね、ね?」

 「あ、ああ……。うん。許可が下りたらね」

 「やった、やった、嬉しい! 僕とても嬉しいです! ありがとう、ありがとうテルさん! 僕ね、僕もね、遊園地に行きたいです! 僕実は行ったこと無くて、行けたことが無くて……僕……」

 さっきまで嘘のようにはしゃいでいたのが一転して、彼はまたうずくまった。顔を見せないように、低い姿勢で、うう、と唸った。

 「うん、行こう。行こうよ、遊園地」

 僕は努めて明るく言った。

 「きっと楽しいよ。はじめての遊園地なんだろう? すごく、すごく楽しいよ」

 「ええ、行きましょう、ニコさん」

 彼女も、彼の肩をさすりながら微笑みかけた。僕はそれを見て、管がついているほうの彼の手をぎゅっと握った。

 「メリーゴーランドに乗ろうよ。くるくる回るだけの単純な遊具だけど、きっと楽しいよ。君は気に入る。それはもうやみつきになるさ。3回くらい乗ってしまうだろう。ニコは何に乗りたい? 動物をモチーフにした椅子があるんだ。僕のお勧めは茶色い馬だよ。可愛いんだ。大人しそうな顔をしてる。ああ、メリーゴーランドの次はトロッコ列車にでも乗ろうよ。園内をトロッコに乗って巡るんだ。楽しそうに遊んでる親子やらカップルやら仲良しグループやらが見れるよ。こっちも楽しい気持ちになるんだ。その点遊園地は魔法がかかった土地だね。僕はそう思う。そうだ、最後は観覧車に乗って、空から地上を見下ろそう。爽快だよ。閉園のメロディが鳴って、日が沈んでいく様を見るんだ。綺麗だよ。すごく綺麗だ。なんなら、ルルと二人きりで乗るといい。カップルたちは観覧車が大好きだから。そう、そうだよ…たくさん、たくさんやることがあるじゃないか。ニコ、ねえニコ、僕はニコと遊園地に行きたいな。一緒に行こう。約束だよ。約束だよニコ。六人揃って、遊園地に行こう」

 ニコと一緒に六人で遊園地に行くことを想像した。キリがはしゃいで、ネリーはキリがはぐれないように大慌てで、イリーナはそれを見て笑うんだ。ニコも笑う。イリーナは仕方ないなと笑ってキリとしっかり手を繋ぐのさ。それを見たルルが遠慮がちにニコの手に触れる。気づいたニコが、嬉しそうに笑ってルルの手を引く。僕とネリーは、そんな二組のカップルを微笑ましく思ったあと、お互い顔を見合わせて、手を繋ぐんだ。

 とても楽しみだ。きっと、きっと素敵な時間になるだろう。遊園地の魔法が、僕たちを包み込んで、あっという間の時間を過ごすんだ。

 はやくその日が来ればいい。僕は家に帰ると、宿題そっちのけで、さっそく計画を練った。明日の放課後、すぐに病院へ行って、ニコと相談するために。

 どこにするか、何時に集まるか、どんな乗り物に乗るか……大雑把に書き出したルーズリーフを、僕は大事に鞄の中へしまって、眠りについた。


 次の日、僕たちがニコに会うことはなかった。



 ***



 アルトさんによれば、今のニコにとって、人と会うことは相当な負荷だったらしい。感情が揺さぶられて泣いたのも良くなかったのかもしれない。

 結論だけ述べれば、ニコは再び発作を起こして倒れた。幸い今度は院内の話であり、病院の個室の中の話なので、迅速な措置が取られ、今は何事もなかったかのように眠っているらしい。

 「すみません、アルトさん……。僕ら、少し、話しすぎました……。ニコの体調を考えられなくて、その」

 『いいんだ、いいんだよテルくん。ニコもそのことに関しては全く後悔してない。嬉しそうだったよ。遊園地に行くんだってね。いいじゃないか、行っておいでよ』

 「……言うのは、簡単ですけど」

 僕は手に持ったルーズリーフを見た。それこそ、行く気満々で立てた計画だったが、冷静になってみれば、夢物語だ…。

 『そうだね……。実を言うとさ、ニコが気を失った後、俺、怒られちゃったんだよね』

 「ええと」

 『ああ、兄と姉に。四人ともすごくニコのこと心配しててさ。いや、俺だってそうだよ? ニコのこと大好きだし心配だ。けど……』

 アルトさんは言葉を飲んだ。僕は、じっと次の言葉を待った。

 『けど、違うんだよ。考え方が。俺個人は、ニコにとって君たちと居ることが何よりの幸せだと思ってる。だけど、兄さんと姉さんたちは……どうやら違うみたい。なんでニコの友達を呼んだりしたんだ!ってさ……』

 「……」

 『ニコの身体のことを第一に考えてる。そりゃあそうさ。身体が第一だ。身体がなかったら何もできない。死んでしまったら意味が無い。……けどさ』

 どうやらアルトさんはニコの気持ちの方をを尊重しているつもりらしい。そうでなければ、こうして僕らとニコの仲介役を買って出るなんてしないはずだ。

 僕はつくづく、アルトさんのような人になりたいと思った。他人の気持ちを思いやれる人に。判断を間違わない人に。

 『どうせすぐ死んでしまうなら……ニコの望むことをやらせてやりたいと思うのは、普通じゃないか?』

 「……そうですね。僕は、アルトさんの方に賛成します」

 言って、ん? と。僕は眉をひそめた。

 少し待てよ? 何かおかしい。

 「アルトさん」

 『ん、どうしたの?』

 「『どうせすぐ』とは、あの……」

 一年という期日までは、その表現は不適切だと思った。もちろん、僕は言葉に関してうるさいほうだ(いちいち指摘するな、とよく親や大人に怒られる高校生だ)……が、誰がどう考えたって、来年の3月までは十二分に時間があった。

 ぞわり、と、悪寒が走る。

 昨日彼はなんと言っていたか?

 『テルさん、ルルさん』

 なぜ僕ら「二人」を呼んだか?

 『僕、もう外に出られないんです』

 なぜそれを、二人に言ったのか?

 『別に、さっき言えばよかったんですけどね。隠すまでもないことですし』

 隠すまでもないことを、なぜ二人に「だけ」言ったのか?

 ひょっとすると。


 彼は、「別のこと」を言おうとして、僕ら二人を引き止めたんじゃなかったのか?



 ***



 「聞いた?」

 学校に着くと、イリーナがこちらを睨んでいた。

 僕は睨まれたくなかったので、彼女から視線をそらして自分の席へ向かう。

 「うん、聞いた。今朝ね」

 「そう」

 早い時間なので、まだキリは来ていなかった。今日は朝から長電話をしていたとはいえ、いつもとそう変わらない時間のはずだ。それなのに、いつもは早くないイリーナがいることに、僕は少しだけ不思議に思った。

 鞄から筆記用具と教科書、それからノートを出して、ルーズリーフしか入っていない入れ物を机の横のフックに掛けた。イリーナが自分の机から降りて、僕の隣の机の上に乗る。そこは、ニコの席だ。

 「ねえ」

 イリーナと二人きりになったことは、たぶん高校生活を3年間続けて来てはじめてのことだろう。少なくとも、僕には彼女と面と向かった記憶は無い。

 「昨日、ニコはなんて言ってた?」

 教室へいつものように入って来て、イリーナがいることに驚きを隠せないルルに、彼女は軽く挨拶をして、また視線を僕に向けた。

 「……はじめに、僕は確認したよ。君の友達でいていいのかって。そうしたら、ニコは許してくれた。……次に聞いた話は、ニコも今日みんなに言うって言ってた話。もう、彼、病院から出られないんだって」

 「ルル」

 僕の話をとりあえず最後まで聞いた彼女は、ふとルルを振り返って確認を取った。この間の二の舞にならないようにだろう。

 「え、ええ、そう。テルさんは、嘘、ついてないよ」

 「それから、ニコが遊園地に行きたいって」

 最後の僕の一言はイリーナの逆鱗に触れたらしい。余計な一言とはこのことを言うのか。

 イリーナは顔を真っ赤にして僕の目の前に立ちはだかった。

 「それが!? 遊園地に行きたいって何!? もう行けないじゃない! キミはそれで何て言ったの!?」

 「六人一緒に行こうって」

 「バッカじゃないの!? 最低!!」

 イリーナは僕を突き飛ばすと、そのまま走って何処かへ行ってしまう。

 彼女とすれ違いざまにネリーが入って来るが、もちろん彼女は一部始終を知らないために怪訝そうな顔をしてルルと僕を交互に見た。

 つくづく思う。

 なんで僕は人の気持ちを考えられないのだろうか。



 ***



 「あのね、ネリー。僕が今から言おうとすることは、ニコから直接聞いたわけじゃないんだけど」

 昼休み。僕はネリーを誘って、久々に二人きりで昼食を摂ることにした。もちろんニコの話題を出すと、ネリーは少しだけ暗い顔をしたが、彼女は特に嫌がる素振りを見せることもなく「ああ、なんだ?」と聞き返して来た。

 あのあと一部始終と、昨日のニコとの会話を、案の定遅刻して来たキリと、ネリーに説明した。二人は残念そうにしていたが、イリーナのように怒ることはなく「遊園地行こうね」と、悲しそうに笑った。

 「アルトさんもね、直接は言わなかったんだ。ああ、まだ聞いてなかったんだ……ごめん、聞かなかったことにしてくれ。って。誤魔化されちゃった」

 僕は気付いてしまった。

 きっとアルトさんは嘘を付くことが出来ない人なんだと思う。

 どうして、ニコは僕とルルを引き止めたのか。

 どうして、ニコのお兄さんたちは怒ったのか。

 どうして、アルトさんはあんな表現を使ったのか。

 どうして……ニコに聞かなければいけなかったのか。

 「これはただの僕の戯言だと思って聞き流してくれ。僕自身確信も持てないし、持ちたくもない」

 ネリーは真剣な表情で僕の話に耳を傾けている。

 僕は息を吸った。

 ああ、神様。もしあなたがいるとするならば、僕はあなたを恨みます。

 「ニコはもうすぐ死んでしまうだろうね」



 ***



 僕たちが再びニコに会うことが許されたのは(アルトさんに、こっそり許可をもらっただけだが)、それから二日後のことだった。

 病院内での発作は思ったより重くなかったらしく、処置も早かったために回復も早かったようだ。

 僕たちはさっそく彼に会いに行った。彼はついこの前会ったのと変わらず、細く頼りない体をしていた。さらに細くなったりしていないようだったのは、今の僕にはとても喜ばしかった。

 ニコはこの間と違って、起き上がらずに僕たちを出迎えた。

 「来て、くれたんですね……」

 嬉しそうに目を細めて、一人一人を見る。ルルが真っ先に前へ出て、彼に駆け寄った。

 「ニコさん!」

 「……ああ、ルル」

 吐息の混じったかすれた声で、愛しい彼女の名を呼ぶ。ルルは必死で細い彼の腕にしがみついて、じっと彼を見つめた。

 ネリーは僕の戯言を聞いてしまったからか、そんな愛し合う二人を見る表情が暗い。聞き流すことは出来なかったようだ。僕はネリーの気持ちも汲んでやれなかった。

 「ね、ねえ! ニコも遊園地行きたいんでしょ!」

 空気を一変させるために、わざと口を開いたのはキリだった。

 そんなキリを、ニコは優しく微笑んで見つめる。

 「……行きたい……」

 「うん、うん、ニコ、一緒にくまさん乗ろうね! お散歩するんだよ! 足おっそいんだ!」

 「……うん」

 「でもね、ふわふわしててね、とっても乗り心地がいいんだよ! 車にも乗ろうね! 俺が好きなのいっぱい見せる!」

 「……」

 「ね。ね……だから、だからニコ、元気になってね。はやく元気になってね。俺待ってるからね。ちゃんと待てるからね」

 ニコは何も言わなかった。嘘を付くことすら出来なくなったのかもしれない。キリがあんまりにも純粋で、無邪気で、輝いていたから。

 「いきたい、なあ……」

 ニコがそう言って深呼吸をすると、静寂が訪れた。いや、この間のような完全な静寂ではない。今まで気づかなかったが、無機質な音が鳴っていた。機械を見ずともその音の正体はわかった。心電図だ。

 新しい医療機器。僕たちの沈黙を邪魔する機械。人を不安にさせる機械。

 電子音に変換されたニコの心臓の音を聴きながら、僕はじっと待った。彼が言おうとして、言えなかったこと。僕らが聞こうとしなかったこと。

 それを彼が、これから言う気がした。

 「……あのね」

 ピ、と。機械はまた波形を取る。

 「……あと、3ヶ月。生きられればいいね……と、言われ、ました」



 ***



  3ヶ月。

 学生の夏休みよりは長い時間。

 人の一生としては短すぎる時間。

 夏が終わるころには、彼はこの世から消えてしまう計算になる。

 僕たちは何も言えなかった。「生きられればいいね」それは、3ヶ月生きられる保障などどこにも無いと、最も長くて3ヶ月だと、そういう意味だった。

 「ただの戯言であって欲しかった」

 帰り道、僕はつぶやいた。

 「どうして気付いちゃったんだろ。僕も、みんなと泣きたかった」

 みんなは声も上げずに泣いた。僕は泣かなかった。6人の中で一番泣き虫だった僕は。一滴も、雫をこぼさなかった。

 「……遊園地なんて、行けないんだね」

 暗く沈んだ声で、キリは言った。彼のそんな声を、僕は初めて聞いた気がする。

 「3ヶ月あれば、行けるさ」

 「行けないよ。許可をもらわなきゃ行けないもの」

 「……どうにかして、もらうんだよ」

 「どうやってもらうの。絶対安静で残りが3ヶ月なのよ」

 「……」

 どうにもできなかった。僕たちには何もできない。ただの受験を控えた高校生ごときに、病気の友達をどうにかしてあげられるだけの力なんて、なかった。



 ***



 例のごとく次の日も僕たちは彼に会うことが叶わなかった。

 ただし、今までとは全く違う理由で、だ。

 「精神的にってどういう意味なの?」

 「……わからないよ。本当に参ってるのかもしれないけれど、僕たちと会わせないための口実だって考えられる」

 苛立ちを隠しきれないイリーナに、僕はそう言った。彼の兄と姉たちは、アルトさんを除き、僕たちのことを良くは思っていない。「大切な弟に悪い虫が付いた」その程度の認識でしかないのだろう。しかし、だ。彼が僕たちといるときにこぼしたあの笑顔は、嘘なんかじゃ無いはずだ。

 「ねえ、ルル」

 僕はルルを振り返った。彼女にしては珍しく、驚くこともしなかった。

 「昨日呼ばれたの、ルルだけだったよね」

 そう、昨日。

 彼は、ルルだけを引き止めた。ルルにだけ言いたいことでもあったのだろう。彼女は彼のパートナーだ。

 彼女は僕たちを見回すと、口を開いた。


 「僕と一緒に死んでくれ。そう、言われましたよ」



 ***



 「……」

 唐突に言われたその言葉にも、ルルは動揺しなかったという。

 きっと僕から残りの時間を知らされた時から、なんもなく予想していた展開なのだろう。

 「ねえ、僕を、僕をまだ好きでいてくれている? 愛してくれている? もしまだ、まだそうなら、僕のために死んでくれ」

 「うん」

 彼女は即答した。

 彼は信じられないといった風な顔で彼女を見つめた。ここまですぐに答えられるなんて、思っていなかったのだろう。

 彼女は続けた。

 「あなたが、本当に心からわたしの死を望んでいるのなら、今ここでそうしましょう。でも、本当にあなたはそうして欲しいの? わたしに、あなたと共に死んで欲しいの?」

 問いを投げかけた。

 彼は言葉に詰まったようだった。

 「わたしは、あなたが好きよ。ニコ。わたし、あなたを愛している。あなたの望むことなら、なんだってしてあげる。でもね」

 彼女は彼の手を離した。

 「わたしがそうしてあなたが幸せになれないのなら、わたしはしないわ」

 答えて、と彼女は言った。

 「あなたは、わたしが死んだら……幸せになってくれる?」

 彼は彼女を突き飛ばした。



 ***



 「今日の件は、わたしのせい」

 ルルはそう言ってうつむく。

 いや、ルルは、正しいことをしたんだと思う。きっと彼は混乱していて、怖くて、確認したくて、そんなことを、彼女を試すようなことを言ったのだろう。

 「ごめんなさい」

 「ルルは、悪いことなんてしてない」

 ネリーが言った。

 「でも、わたしは彼を傷つけたわ。寄り添って、あげられなかった」

 「でも」

 「……わたしね、嘘は言いたくなかった。死にたくない訳じゃない。少し前まで、本当に一緒に死のうと思っていたの」

 ルルは鞄から大量の書物を取り出して、そっと目の前にある僕の机の上に置いた。相当な量の……医学書だった。

 「わたし、夢が出来たの。医者になりたいの」

 彼女は、ずっと前を見ていた。



 ***



 「会いたくない」そう言われてしまっては、僕たちは無理に押し入ることは出来ない。

 そう、ここ一ヶ月、彼のその一言によって、僕たちは全くコンタクトを取れていなかった。

 時間が、迫っていると言うのに。

 「なんとかして会えないかな」

 いつものように、放課後、ニコを抜いた五人で集まっていた時、唐突にキリがそう言った。

 「会ってどうするんだい?」

 ニコと同じで、僕ももう会いたくなかった。会いたいけれど、会いたくなかった。

 どうするって、ほどでも無いけど、でも。キリは俯く。やっぱり僕は早急にアルトさんに弟子入りでもするべきだな、と思った。

 「ニコが会いたくないって言ってるんだ。会ってもお互い嫌な気持ちになるだけだよ……」

 「でも、……うん、そう、だね」

 彼自身が拒むのなら、もうアルトさんも僕たちに味方する必要は無い。アルトさんはニコの味方であって、僕たちの味方ではないのだ。

 「それにしたって、ニコはルルのこと、知らないでしょ?」

 そう言って彼女は、もくもくと勉強をする少女を見つめた。あの大量の医学書のひとつを開いて、何やらノートを取っているらしい。今からそんなに本格的な勉強をしなくても、大学へ進めばいいのに……いや、彼女の目指す医大は、そんなに簡単に受かるところでは無い。それこそ、今からではとても間に合うわけがないほどに。

 僕は彼女の近くまで歩いた。ルルは気づかない。それほど集中しているのだろう。

 「ねぇ、ルル」

 「! は、はい?」

 肩を叩いて名を呼ぶと、流石に返事をした。ちらりと見たノートには、びっしりと文字が書いてある。

 「ルルはあれからニコに会った?」

 「…い、いいえ……。会ってません……」

 「そう…」

 確かに、ニコはこのことを知らない。でも彼は、僕と違って心の無い人間じゃ無い。ルルがああ冷たく言うのも、心からルルに死んで欲しいと願っているわけではないことを、彼女が気付いていたからだということを、きっと知っている。

 だがそんなことを受け入れられない位、嘘でもいいから死ぬと言って欲しかったくらい、彼の心は限界だったのかもしれない。

 「ねえみんな」

 だから僕は言った。

 「ニコを遊園地に連れて行こう」



 ***



 僕たちはアルトさんの家……もといニコの家へ上がった。実際は、彼が僕たちを招いたのではなく、僕たちがニコの家へ押し入ったのである。

 僕たちの根気に負けて、アルトさんは僕たちを部屋へ通してくれた。2年生のころ、一度来ただけだったニコの部屋は、相変わらずきちんと整理されていて、余計な物は何も無いすっきりした空間だった。今ではそこに彼のお兄さんたちの私物やら何やらが散乱していたが、それでも綺麗だと思えるくらいに、元の部屋が整頓されていた。

 「ちょっと、アルト」

 ソファに深く腰掛けテレビを見ていた長髪の女の人がアルトさんを呼び止める。彼女はなんとシャツ一枚という、部屋着だとしてもラフすぎる格好をしていた。

 彼女はぞろぞろと入ってくる僕たちを指差して、眉をひそめた。

 「誰よ、この子たち」

 「ね、姉さん。ニコのお友達ですよ。ほら、よく話してたでしょう?」

 どうやら彼女はアルトさんのお姉さんらしい。真面目できちんとしたニコやアルトさんとは対照的な人だなと思った。

 彼女はふぅんと言って、僕たちをじろじろ見る。

 「上がらせちゃって良かったの? あたしは別にいいけど、イヴ兄とウィル姉さんがなんて言うか」

 「お、俺が責任持ちます。上がらせたのは俺ですから」

 「そう……」

 彼女は心配そうにアルトさんを見つめると、再び視線を僕たちに戻した。

 「ニコのお友達なんだって? ルルちゃんはだあれ?」

 「あ、わ、わたし、です…」

 おどおどしながらルルが一歩前へ出る。彼女は6人の中で最も身長が高い。アルトさんとそう変わらない身長である。

 「あら、いろいろと大きいのね」

 「ね、姉さん!!」

 「ああ、ごめんなさい。あたしすぐそういうこと気にしちゃってもーーー! あると??この子よね? 例の彼女!」

 「姉さんちょっと!!」

 「やーん可愛いじゃない! ルルちゃん、あたしニコのお姉ちゃん。フロールよ。フロールお姉ちゃんって呼んでね!」

 そう言ってフロールさんはルルに抱きつく。相当気に入られたようで、フロールさんは笑顔。ルルのほうは話がさっぱり分からないらしく、混乱したまま大人しく抱きしめられていた。

 嫌われるよりはるかにマシだ。僕は正直ほっとした。アルトさんから、僕たちはお兄さんたちによく思われていないと聞かされていたから、不安だったのだ。

 「アルトさん」

 僕はアルトさんを呼び止めた。このまま何もしないで時間を食われてしまってはたまらない。

 「あ、ああ。姉さん、ちょっと、その子を開放してあげて欲しいんですが……。この子達、話があるって来たんです」

 「話? あたしも聞いていいの? なんなら散歩にでも行って来るけど」

 「フロールさんも是非」

 僕がそう言うと、フロールさんは「お姉ちゃんって呼んでいいのよ?」と僕を見る。僕にまで強要しようとするのは少しズレてるなと感じながらも、僕は軽く会釈をして受け流した。

 「それで、テルくん」

 隣の小さな個室に僕たち七人は身を寄せ合いながら入った。アルトさんが座るよう促したので、真ん中のちゃぶ台を囲むようにして僕たちは座った。

 「話って?」

 僕はルルをはじめとするいつものメンバーと目配せをした。

 「なんとかしてニコを喜ばせてあげようと思いまして、こんなものを考えました」

 僕は例のルーズリーフと、全く新しいことを書き留めたルーズリーフをちゃぶ台に置いた。



 ***



 「兄さん、ねえ、何処へ行くんです? 誰が来たんです?」

 ニコが不審そうに首を傾げる様が想像できた。僕たちは息をひそめる。

 「うん、色々とね。考えたんだ。それで、今日にしたんだよ」

 「兄さん? ええと、言ってることが、よく分からないんです、けど……」

 開け放たれたドアの向こう、その部屋を見て彼は言葉も出なかった。僕たちはすぐさま前へ出る。

 「ニコ、あのね」

 「帰ってください」

 「話を聞いて。あのねニコ。このままじゃあ遊園地なんて行けそうになかったから」

 「帰ってください」

 「僕たち、ここを遊園地みたくしてみたんだけど、どうかな、ニコ。遊ぼうよ」

 「帰って……」

 「ニコ! これがね、こないだ言ってたくまさん! それからね、あのね、メリーゴーランド! ほら、ほら見て!」

 僕たちを拒む彼の手を、キリが強引に引っ張る。この日を楽しみにしていたキリは、それはもう嬉しくて仕方がないという顔をして、本当に楽しそうだった。ニコは、そんな彼の幸せをぶち壊すことが出来るほど、非情ではなかった。キリの望み通り、アルトさんがニコの車椅子を押す。

 僕たちが用意したのは雰囲気だけの遊園地だ。遊具を作る材料も金もない。言って見ればニコに遊園地とはどんなものかを紹介するための、たったそれだけの遊園地。イリーナが作った遊具紹介の動画がメイン。あとは楽しい雰囲気を出せるように、みんなで内装をした。アルトさんやフロールさんとの相談で、それが今のニコに出来る精一杯のことだった。

 遊園地だなんてとんでもない。絶対に行けるはずがない。だって、だって、ニコは、ニコはもう。

 それなら遊園地を作りましょう。僕たちで。身体に障らないような、ほんの雰囲気だけのものですけれど。

 ニコは気に入ってくれるだろうか。ルルと仲直り出来るだろうか。ニコは楽しんでくれるだろうか。そんなことを考えながら作った粗末な遊園地。

 「……も、なんです、これ……。全然、ふふ、遊園地じゃないですよ、これじゃ…あはは! おかしい、ふふ、変な遊園地ですね」


 ニコは、笑ってくれた。



 ***



 散々遊具の動画(イリーナの編集技術は実に見事であり、ユーモア溢れる出来で、笑いの絶えないバラエティのようだった)を見て楽しんだ後、僕たちはお茶をしていた。お茶といっても、ニコが口に出来るものは限られているので、彼一人はただ談笑しているだけであった。

 「ねえニコ」

 「うん?」

 僕は久々に彼をまじまじと見つめた。一ヶ月前、最後に会ってから、またやつれたようだ。こうしていられる時間も残り少なくなって来ているんだと思うと、胸が痛む。

 「楽しんでくれた?」

 「愚問ですねテルさん。楽しんだにきまってるじゃありませんか。素敵なプレゼントをありがとうございます」

 彼は屈託のない笑顔でぺこりと頭を下げる。

 僕は目を細めた。みんなも同じように微笑む。

 「そういってくれると頑張った甲斐があったよ! ほんと疲れたんだからあ」

 「イリーナは一番頑張ってくれたからな。菓子を多めに分けておいたぞ」

 「やーん! ネリー、気が利く! 疲れた頭にはやっぱ糖分だよね! もぐもぐ」

 イリーナは満足げにクッキーを口に放り込んだ。チョコチップクッキー。キリが一番好きなクッキーだ。

 「ねえニコ」

 「ふ、今度はなんです? 今日で一月分話すつもりですか?」

 ニコはまた笑う。僕はちらりとルルを見やった。彼女と目が合う。彼女はニコが来てから、一言も口にしていなかった。

 「ルルにはね、夢が出来たんだって」

 「テルさん!」

 がたんと大きな音を立てて立ち上がったのはルルだ。ニコが驚いてまた発作を起こさないか心配だったが、彼はぽかんと口を開けて彼女を見つめている。いらぬ心配だったようだ。

 僕は構わず続けた。

 「大きな夢があるんだ。それも立派な。ねえニコ。君は…君はルルを応援する?」

 意地の悪い質問だった。君には未来が無いけれど、彼女にはあるんだと、そういう皮肉に聞こえても仕方のない問いだった。

 ああ、僕はなんて汚いんだろう。早急に殴られるべきだった。

 でも彼は、笑った。

 「ええ。応援しますよ。大好きなルルのしたいことなら」

 彼は聖人だろう。彼はまさに僕の尊敬するアルトさんの弟だった。僕の意地汚い問いに怒るでもなく、ルルを責めるでもなく。未来を託したのだ。

 「ニコさ」

 「好きだよルル」

 本心の言葉だった。嘘偽りない、まさに真実の、飾らない言葉だった。

 「ごめんね」

 彼はそう、悲しそうに笑った。



 ***



 それから再び彼に会うことは叶わなくなってしまった。今度はもう、我儘でもなく、本当に。

 そのまま事実だけ言ってしまえば、ニコはまた発作を起こした。少し前の発作よりも深刻で、すぐにICUへ放り込まれたそうだ。それからずっと危篤状態が続いていて、家族であるアルトさん、フロールさんでさえも面会を許されなかった。


 「……あぁ、テルくんたちか」

 「……ど、うしたんです……? それ……」

 ハリボテの遊園地企画の後から、僕たち5人はよくアルトさんに会うようになっていた。

 ニコが発作を起こしたと連絡を受けた日も、5人そろってすぐに病院に駆けつけた。手術は遅くまで続いて、いつかのようにまだ子供である僕たちは追い返されてしまった、その次の日のことである。ニコの家へアルトさんに会いに行った僕たちは、痛々しい姿の彼に出迎えられた。

 「あぁ、これ……」

 「痛そう……。怪我したの?」

 「うん、そう。怪我。怪我した、というか……うん、させられたっていうか」

 不安そうに尋ねるキリにそう言って、アルトさんは、大きなガーゼを貼り付けられた右頬を撫でた。

 「歯が3本抜けちゃった。歯抜けのアルトだよ。なんちゃって。はは……」

 まだ痛むのか、アルトさんは顔をしかめた。

 「怪我させられたんです? 一体誰に」

 部屋に案内されながら、今度はイリーナが尋ねる。アルトさんは乾いた笑いを返して、しばらく黙った。この前、アルトさんとフロールさんと僕たちで作戦会議をした部屋へ案内し、座るように促すと、彼は大きなため息を付いた。

 「兄さんにね……殴られちゃったんだ。普段はそんなことする人じゃないんだけど、カッとなると先に手が出ちゃうんだ」

 「ええと、お兄さん」

 「そう。俺と、フロール姉さんの……そんでニコのお兄さんだよ。イヴァン兄さん。あんまり家に帰らない上に何してるかわかんないけど、俺たち兄弟の一番上。怒るとおっかない。俺を見て察してくれ」

 アルトさんはまた自嘲気味に笑うと、がっくりと項垂れた。

 「……僕たちのせいですね」

 「んああ! 違う違う! 君たちのせいじゃなくて…!」

 「勝手にあんな真似をしなければニコは発作なんて起こさなかったと。そう、言われたんじゃないんですか?」

 「……君ってエスパーだったりするの……?」

 僕は彼のボケに「違います」と冷静に返して、またため息をつく彼をじっと見つめた。

 どうやら本当にそうらしい。考えられる中で一番シンプルな理由だった。イヴァンさんという人は、それだけニコのことを愛しているのだろう。

 「ほんとはこうして君たちに会うのも怒られたんだけどね……」

 「す、すみません……。わたしたちの、せいで……」

 ルルがおろおろとしだすと、アルトさんは「いや」と言って首を振る。

 「兄さんも本当はニコが喜んでくれたことを嬉しく思ってくれてんだ。でも、ほら、ニコは……。ニコの時間は、もう……。少しでも長くここにいてほしいから、うん、なんていうか……俺が殴られてニコが治ればこんなに嬉しいことはないんだけどね」

 アルトさんは急に机に突っ伏した。それはそうだ、大切な弟が今にも死にそうになっているのに、何も出来ない。こんなに辛いことがあるだろうか。

 僕たちは何も言えなくて俯いた。



 ***



 それからニコに会えたのは、3週間後のことだった。

 僕たち5人は変わり果てた彼の姿に絶句した。何も言わなかった。言えなかった。

 「頭がね、イカれちゃって。目はもうほとんど見えないって。言葉も喋れないってさ」

 感情を噛み殺した表情で、アルトさんは震える声でそう言った。

 循環機能の低下。それによる血流不足。壊死。なるほど、たかが高校生の子供である僕にも、普通に考えられる理由だった。むしろ今まで体の機能を保っていたのが不思議なくらいだ。

 「ニコ」

 僕がそう呼ぶと、彼はぴくりと反応した。どうやらまだ聴覚は死んでいないようだ。ああ、死ぬとき最後まで残っているのは聴覚だったか、と何処で仕入れたか分からない知識を思い出して、僕はほっと胸を撫で下ろす。

 まだ伝えたいことがある。

 こんな状態の……とても人に会える状態でないにも関わらず、僕たちが呼ばれた理由は、単純明快だった。

 時間が迫ってきている。それも、すぐそこまで。

 こうして僕たちが堂々と彼に会えると言うことは、お兄さんたちも納得してくれたのだろう。初めて見るイヴァンさんという人は、怖い顔をして僕たちを睨んでこそいたが、取り乱したり何かを言ってきたりはしなかった。

 「……っ、」

 ニコがかすかに手を動かして、訴えるような眼差しを向ける。苦しそうに顔をしかめつつも、必死に何かを探すように顔を動かす。

 「に、ニコさん!」

 咄嗟に声を上げたのはルルだ。彼女は、無数の管が繋がった彼の細腕を優しく掴むと、愛おしそうに自分の頬に付けた。

 「ルルですよ、ニコさん……。あなたの、あなたの彼女です。ニコさん、好きよ。大好きよ……ああ……」

 彼女の慈愛に満ちた瞳から、ポロポロと涙が零れる。しかし、彼女は幸せそうだった。悲しい涙ではなく、彼に会えたことの、最後に彼に会えたことへの幸せを感じる嬉し泣きだった。

 「もうずっと会えてなかったもの。嬉しい。わたし、嬉しいわ、ニコさん。あなたに会いたかったの。わたし、あなたが好き。ずっとずっと夢に見てた。毎日眠るのが楽しみだったのよ。夢の中でならあなたに会えたから。でも、でももうそうやって夢に恋い焦がれる必要なんてないの。今こうして、こうしてあなたに会えたから。わたし、わたしそれだけでいいわ。愛してる。愛してるわニコ。好きよ。ずっと、ずっと好きよ」

 ポロポロと次から次へと溢れる涙で、彼の腕を濡らしながら、彼女はずっと彼に語りかけていた。

 彼は幸せそうだった。細い目をほんのわずか開いて、愛おしそうな目で彼女を見ていた。全く見えていないわけではないのだろう。彼は優しく笑っていた。

 彼が探していたのは彼女だった。最期に一目だけでも、彼女に会いたいと、そう願っていたのだろう。

 「……ぁ、」

 かすかに声帯を震わせ、かすれた声を出す。音にならない言葉は耳には伝わらないものの、しかし目にはしっかり届いていた。

 『あいしてる』

 精一杯の気持ちだろう。捻くれた人は、こんな場面でこれは皮肉かと思うかもしれないが、二人はそれでよかった。愛を確かめあえたら、それで満足だったのだ。

 「うれしい」

 ルルは今までにないくらい、心底幸せそうな顔をして、愛おしそうにニコの顔を撫でる。彼はまた、ふ、と笑うと、口元を緩める。

 二人の世界。お呼びで無い僕たちは、ただ二人を見守っているだけだった。

 よかった。と、僕はただそう思った。あのまま会えないことをずっと危惧していたし、本当にそうなる可能性の方が高かったのだから。


 「よかった。よかったね……ニコ。僕ら、絶対に君を忘れないよ。……僕の、親友」

 

 僕がそう言うと、安心したように目を閉じた。もう息をすることもしようとしない。

 「待ってて。待っててね。お土産話いっぱい持っていくから!」

 「楽しい話全部聞かせてやるぞ!」

 「すぐとは言わないけれど、少しだけ待っててね!」

 「僕ら、君に恥じない生き方をするから」

 「わたし、わたし医者になるから!」

 それぞれが人形のような彼に、思い思いの言葉を投げかける。僕たちはずっと喋っていた。ずっと。ボロボロとみっともなく泣きながら、聞くに耐えない声で、それでも平気な風を装って語った。

 まだ、まだたくさん言いたいことがあるんだ。

 医者が日付と時刻を言って去って行った後も、僕たちはずっと喋っていた。

 彼はとても綺麗な顔をしていた。



 ***



 「よく来たね、上がって」

 「失礼します」

 彼の部屋はさっぱりとした空間だった。やはり散らかし癖があるのはお兄さんやお姉さんのほうのようだった。きちんと整理された部屋は、どうぞ、と言われれば何処へ座ろうか迷うくらいに座れるスペースがあった。

 僕は一歩部屋へ入り、カーペットの上に適当に座った。キッチンへ向かっていた彼は、すぐさまコーヒーを入れにかかる。芳ばしい香りが部屋を包み込んだ。

 「ブラックで良かったんだよね」

 「ええ」

 なぜ今更そんなことを聞くのか不思議なくらい、僕は頻繁に彼の元へ訪れていた。

 僕が抱いた疑問に気づいたのか、彼は苦笑した。

 「いや、つい昨日キリくんとイリーナちゃんが来てね。君に出すようにブラックで入れちゃったんだよ。そうしたらイリーナちゃんに文句言われちゃってさ」

 「あぁ、すみません。僕から謝ります」

 「いやいや、ちゃんと人のこと考えないとなって思ったよ。俺もブラック派だからね」

 「ご兄弟も?」

 「いや、兄弟の中じゃ俺だけかな。みんな紅茶派だし。イヴァン兄さんはジャム入れるんだよ」

 「甘すぎやしませんかね」

 「それがいいんだとさ。ほら、あの人甘いの大好きだから」

 彼はそういってブラックコーヒーの入ったカップをふたつ運んできた。一つはもちろん僕の分で、もう一つは彼自身の分だ。

 「でも俺もちょっと砂糖入ってたほうが好き」

 へへ、と笑って彼はスティックシュガーをカップに入れる。ティースプーンで5回ほどかき混ぜると、一口含んで「うん、やっぱりこれがいい」と頷いた。

 僕も「いただきます」と頭を下げて、カップを口につけた。ふんわりとした香りが口いっぱいに広がる。余計な味のしない彼のコーヒーが、僕は大好きだ。

 「キリとイリーナは何をしに?」

 「あぁ、七回忌に出たいって言ってくれて」

 「あ……」

 「俺としては嬉しい限りなんだけど、まだ兄さんたちには連絡してないから、保留って伝えてあるよ」

 「僕とネリーも出席しても?」

 「もちろんだよ! 四人合わせて伝えておくね。ルルちゃんにも連絡しておこう」

 もう、そんな年になるのか。

 「彼」がいなくなってからも、僕たちは仲の良い親友同士だった。社会人となった僕たちはそれぞれ別の道を歩んでいるが、時々会ったり連絡を取ったりして平凡な生活を楽しんでいる。

 僕はふと携帯を開いた。イリーナとネリーから、それぞれ一件ずつメールが入っていた。僕は彼を伺い、メールを見た。

 イリーナからは先ほどアルトさんに聞いた七回忌の件だった。ネリーとルルにも送ったらしい。僕はすぐに出席するつもりだと返信をする。ネリーからは晩御飯の件だった。適当に思いついた料理名を打ち込んで(たしかお好み焼きと打った気がする)、さっさと返信を飛ばす。

 「さて、本題に入ろうか?」

 「あ、はい」

 僕は鞄から原稿を取り出して、机の上に広げた。彼はそれを手にとって黙読し始めた。

 「今回は実話なんだね」

 「すみません、なんか、その」

 「いいんだよ。こうして弟のことが書かれるのは、なんだか誇らしい」

 僕は小説家をやっている。そこそこな有名大学の文学部を卒業した後、アルバイトをしながら出版社に持ち込みにいく生活をしていた。すぐに僕の文章は受け入れられ、しばらく短編を書いていたのだが、最近は長編に手を出しはじめた。

 こうして彼に見てもらっているのは、僕が彼の弟子だからである。彼はごく普通の国家公務員であるが、暇を見つけてはこうして僕の拙い文章を見てくれる。

 「流石は俺の弟の弟子!」

 なんちゃって、と付け加えて、彼は原稿を整えて僕に返す。僕は今でこそ彼のことを師匠と慕ってはいるが、最初に弟子入りしたのは彼の弟の方だった。

 「なんだかニコが書いてるみたいで、読んでて嬉しいんだよね。テルくんの話」

 「あ……」

 「ん、えと! 違う! 変な意味じゃなくて! なんというか、うん、なんか、ご、ごめん」

 「いえ、僕も……僕もとても嬉しいです。ニコは、僕の先生だったから」

 高校で彼と出会って、僕は字書きとなった。何か書いては彼に見せることを繰り返し、培われた今の文章。それは僕と彼の作品であり、彼が生きていた証拠となって、僕の頭の中にある。

 「出版したら真っ先に買いに行くよ」

 「担当よりアルトさんの方が厳しいですから、もう出版確定ですよ」

 「あはは、そうなの? 師匠らしいこと出来てるんだ、うれしいな」

 今回、僕は彼の……アルトさんの弟であるニコのことを書いた。ニコが生きていた事実を記述したノンフィクション小説だ。

 僕はずっと自分の頭の中の世界を描いた小説を書いていたので、このタイプはこれで初めての試みとなる。

 「僕、ずっと忘れませんよ。これまでも、もちろんこれからも。お土産話を沢山作っておかなくちゃ」

 「そうだね、俺も。沢山作っていこうと思うよ」

 キリは教師になった。イリーナは研究職に就き、ネリーは服飾系の仕事をしている。

 ルルは有能で有名な外科医となった。彼女の手にかかれば、どんな難病患者も全快すると、もっぱらニュースなどで取り上げられている。この国自慢の医師だ。

 「全部君のおかげだよ」

 僕はアルトさんの部屋の片隅にある仏壇に語りかけた。二年生の頃の修学旅行で撮った写真のアップが飾られている。本当に楽しそうだ。高校で知り合った僕たち。もっと、もっとずっと早く知り合っていたかった。そうしたら、もっと多くの思い出が……。

 「ううん。欲は言わない。これから何十年後にまた、会えるんだから」


 僕は笑う彼に、「またね」と手を振った。

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