混乱 1.
「動くなッ!! 君、そこから絶対に動くんじゃないぞッ!!」
おれの目を覚ましたのは、知らない男の怒鳴り声だった。
昨晩はちゃんとベッドに寝たはずなのに、背中がやけに冷たい。そして固い。
おかしいな。……ああ、そっか。ベッドから転げ落ちたのか。それなら納得だ。
うちの家は全部屋フローリングだし、たしかに夏場は床に寝転がるだけでも冷房がわりにはなる便利なシロモノだ。
よく母さんに、猫みたいにそうやって丸まってるからますますバカに拍車がかかるんだよ、っていつも怒鳴られてたっけ。
「いいか!? 繰り返すが動くなよ。……寝返りを打ったら落ちるからなッ!」
この声はいったいなにを言っているんだろう。フローリングからさらにどこかへ落ちるわけがないだろうに。バカ言わないで、もう少し寝かせてくれよ。
……いや、待て。そもそもこの声は誰だ。オヤジにしては声域が高いぞ。
「周りをよく見るんだ、君。だが決してパニックになるな。とにかく落ち着くんだ!」
あんたの方が落ち着いたらどうだ?
目をしばたきながら見ると、顔を覗きこんでいるのは二十後半かそこらのサラリーマン風の男だった。見るからに実直そうで、ザ・好青年といった感じだ。
「……あんた、誰?」
「そんなことはどうでもいい。いいか、体を起こさずに、首だけ回して周囲を見渡すんだ。そうすれば僕の身上なんて気にならなくなるからッ」
命令ばかり一方的に怒鳴り散らされて少なからず業腹だったけれど、おれは指示に従った。その権幕が普通ではないように思えたから。
指示通り、首だけを回そうとして、気付いた。
床が無い。
いや、床はある。ただ、それはおれの背中に沿って固い鉄骨がそえられているだけだ。
それ以外はなにもない。あとは虚空だ。
ん? …………鉄骨?
「あぁ……うわああ!!」
自分の状況の突飛さに驚いて、ガバッと身を起こした――――のは、早計だった。
バランスをくずした体はいとも簡単に鉄骨から振り落とされそうになり、世界が反転……。
だが、とっさに伸ばした手が青年に掴みあげられて、危うく事なきを得た。
途端、強風が身をさいた。世界は暗く、星まで見える。
知らない人はいるし、ベッドは鉄骨に様変わりしているし、時刻はなぜか深夜で、しかも屋外にいる。
「大丈夫かい。立てるかな? いや、座ってた方が、もしかすると安全かもしれないんだけど」
「だっ、……大、丈夫です……」
立ち上がるとよろめいた。まだ寝起きで、三半規管が思うように働いてくれない。だがそこらじゅうに鉄骨はあり、その一本に手をついて体を預けると、いくらか楽になった。
見たくはなかったが、眼下を見下ろす。
――すると、やはり見たくないものが見えた。
夜景だ。
鮮やかな光が色とりどりにまたたいて、綺麗な夜景を作り出していた。
その小ささと、夜景の範囲の広大さから、自分がいまどれだけ高い場所にいるのか、否が応でも思い知らされた。
そして、鉄骨の色にも思い当たる節があった。
赤い、鮮やかな、目を眇めたくなるような綺麗な赤色。
赤い、鉄骨。その群れで形成される建造物を、日本で知らない者はいない。
「ここは、……どこですか?」
予感めいた答えを持ちながら、サラリーマン風の青年に訊く。
彼も同じように鉄骨に身を預けてバランスを取りながらこちらを見て、困ったように苦笑した。
まるで、分かるだろ? とでも言いたげに。
だが、それでも彼は敢えて答えた。現実味のない状況で、それをまだ信じられない自分を納得でもさせるかのように。
彼ははっきりと語感を強くして言った。
「東京タワーの、上だよ」




