船の上で
お久しぶりです。作者の山藍摺です。一〜七と二分の一話を一〜四話にまとめました。
この五話から新規投稿分です。
一時、投稿ミスにより一話が二話になってたりしましたが、直しました。
その場所は、水気に満ちた河岸だった。すぐ側を流れる水の音、肌にまとわりつく空気中の湿り気。水の匂いがとても濃く、鼻につく。
たまに、忘れたように強い風が川より吹き付けてくる。川より来る風は、彼のいる河岸よりさらに濃い水の匂いを運んでくる――まるで雨が降る前の匂いを、何倍も何倍も濃くしたような匂いだ。
久々に隔てるものがない状況で息をする彼の鼻に、濃厚すぎる水の匂いは、今の状況がまことなのだと、彼に容赦なく現実を突きつけてくる。
大きな大きな、対岸など見えない遥かなる大河。広大な河岸は、大小様々な石ころや岩、そして砂粒で覆い尽くされている。
決して晴れることの無い空はいつも、厚く重い雲に覆われている。空を見上げれば、見るものを押し潰してしまいそうな圧迫感を放つ雲しかない。
水も、砂粒も石ころも、空を覆い隠す雲も、すべてが暗い、暗い色で埋め尽くされていた。濃淡はあれど、灰色一色だ。もしくは、どこからか河岸に流れ着いた流木の灰色みを帯びた茶か、足元の砂利に混ざる苔や草のくすんだ緑か。とにかく灰色が中心に存在する世界だった。
彼は、そんな河岸にひとりぽつんと立ち竦んでいた。彼以外立つものはいない――河岸側、には。
「……よう、柊の旦那じゃねぇの」
彼の耳に、しゃがれた声が届く。彼は顔をあげた。
水の上には立つものがいた。正確には、河岸に近い水面に漂う船の上、だ。小さなみすぼらしい木の船だった。それが彼の視界に最初に映ったものだった。
ぎし、ぎぃ……と耳障りな甲高い音をたてており、強い風を受ければ、すぐに沈みそうなぼろさだ。船を構成する木材は腐食していて、本当にこの広大な河を渡りきれるか怪しい。
「護り手であるあんたが、何ぼさっとしてんでえぃ」
彼は、声の方に顔を向けた。
一番に飛び込んできたのは、その色だった。
赤、だった。全身が赤だった。周囲の灰色が中心の世界に、血を一滴垂らしたような、異質で鮮やかな赤だった。
声の主の持つ、船には不釣り合いな、真っ赤な真っ赤な太い棒だった。ごつごつ、ざらざらとした表面のそれはまるで骨のようだった。
「やけにしけた顔してやがんじゃねぇの。何だ、コレにでもフラれたってのかい」
尖った鋭利な小刀のような小指を立て、コレという声の主は、とても小柄な――人間ではなく、鬼だった。小鬼と呼ばれる存在だった。
非常に角度の極端な猫背の矮躯は、干からびたようにかさかさで、赤らんだ茶色だった。まるで乾く前の血のようで、灰色が中心の世界でやけに目立つ色だった。
空だのわりには大きな顔、顔の大きさにしては大きさすぎる、大きな目は血走り、ぎょろりと忙しくなく動く。昼間の猫のように細く尖った瞳を骸骨に向け、大きく避けた口を開き、涎を垂らし臭い息を吐きつつ、言葉を紡ぐ。
「冗談はさておきよぉ……。シャバに行ったてめぇが何でこっちにいるのさぁ?」
ぎょろぎょろと、皮膚と違いやけに湿った眼球が動く。ぼろ布を腰に巻いただけの小鬼は、見た目と口調とは裏腹に、相手の様子を慮るようなをしていた。
「おい、どうしたってぇんだよ。黙りなんてさぁ……、渡し鬼のオイラにも分け隔てなく接してくれた柊の旦那らしくねぇじゃねぇのよ。なぁ?」
少し焦りを含んだ口調で、小鬼は早口に捲し立てた。小鬼は、明るく穏やかな普段とは違う今の彼に、不安をかき立てられたのだ。
「……船に、乗ります。そこで、話しましょう。聞いてくれますか」
戸惑いを隠せない小鬼に、彼は――柊は淡く儚い笑みを浮かべた。疲れた、気力の感じられない笑みだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「懸想しただけってぇのか? え、それだけだってぇのか!?」
小鬼は、真っ赤な骨のような櫂に抱きつくようにして、木の船を漕いでいた。あの真っ赤な骨のような棒は、船を漕ぐための櫂だったのだ。
ゆらぁり、ゆらりと船が揺れる。時折ぐらりと大きく傾ぎ、はや沈没かと思いきや、ギリギリのタイミングで沈まない。
彼はそんな危なっかしい船を全く気にしない。沈んでしまえば、意外と速い河の流れに呑まれるというのに。泳ぐ暇もないくらい、かなり速いのだ。よくぼろい船がもつものである。
「ああ、それだけですよソウタローくん。でも、護り手としてはいけないことなんですよソウタローくん」
穏やかに、柊は苦笑する。
「ソウタローくんソウタローくんうるせぇやい! オイラはソウジローだってんでぃ。タローはオイラより体色が濃い緋色だってんでえぃ」
むす、と頬を軽く膨らませて、小鬼あらためソウジローはそっぽを向いた。
「ああ、ごめんごめん。赤褐色の君はソウジローくんでしたね。駄目ですね、久々にこちらに戻ったもので、なかなか調子が戻りませんね」
駄目ですねーといいながら、柊は首をこきこき鳴らした。すると、一本にゆるくまとめて後ろへ垂らしていた髪が、するりと着物の襟部分まで垂れ落ちてきた。
先日のトンボ返りの一瞬の帰郷を除き、彼がこちらに戻ったのは本当に久々だった。実に十二年ぶりだ。
「十二年、干支が一巡する間でしたからね、本当に久々ですね……」
彼は髪の先を摘んだ。十二年を過ごしたのに、全く変わらない長さだ。あちらは時が流れ、あちらで生きるものは姿が変化していく。けれども、柊は変化しなかった。柊はこちら、時の流れない黄泉の住人だから。
「無意識に溜め息吐いてんじゃないやい、幸せ逃げちまうぞ」
水をかきながら、ソウジローは呟いた。
「もう失う幸せはありませんよ。あちらで得た幸せは……」
柊は空を見上げた。曇天の空模様は、常に暗いまま。あちらのように、青空の澄んだ蒼や、夕焼けの赤や紫のグラデーション、朝焼けの橙と藍のグラデーションもない。
「でも、彼女はわたしがいなくとも、きちんと、きちんと……不自由なく暮らしているんでしょうね……」
柊がさみしい、悲しい気持ちでも、彼女は友人と毎日楽しく暮らしているんだろう。人生で初めての友人が出来たのだ。それに、もしかしなくても、あの異性の匂いから判断するに、想い合う相手を見つけたのだろう。
柊――骸骨がいなくても、彼女――朝陽は気にしないのかもしれない。新しい守護の者に守られて、変わらない日々を過ごしているのだろう。
「だ、旦那?! どこか痛むのか、痛いのか?」
「痛い――痛いのですかねぇ」
「痛みを堪えてる顔じゃねぇの、旦那、オイラ速度あげるからしっかり掴まってな、な!」
柊は力なく笑った。
こんな自分が情けなかった。馬鹿らしかった。自分を殴ってしまいたかった。
妹のように見守っていた守護の対象に懸想した、馬鹿で阿呆な任務を放棄した不埒者。
小鬼のソウジローは何も聞かずに心配してくれるが、優しく照れ屋な彼に心配してもらえる立場にないことを、柊はよくわかっていた。
強制送還され、あちらでの仮の姿であった骸骨の幻も取り上げられ、ただの人の姿に戻った。もし今、朝陽に会えても、彼を骸骨だと朝陽は気付かないだろう。
骸骨だったから、声も知らないだろう。姿も知らないだろう。気付かれはしないだろう。その事実に、柊は悲しく寂しく思う一方で、安堵していた。こんな醜い気持ちをもつ男が、十二年も側にいたと思われたくなかったから。知られたくなかったから。
速度をあげていく船に横たわり、柊は灰紫色の着物の袖で顔を覆い隠した。
船は、乗船する者を容赦なく揺らがせながら、水上を荒々しく走っていく。
船にいるのは、実は優しい小鬼と――ほっそりとした、丸眼鏡の落ち着いた顔立ちの二十歳前後の青年だった。
次話は今月中に投稿予定です。