九千と九百と九十九
「ああ、ああ……っ」
すたすた、すたすた。
「ああ……、畜生がっ!」
すたすたたた、すたたたた。
――部屋の大きさは、体育館の半分くらいだろうか。床にはルビーのように紅い絨毯が敷きつめられ、壁材には深く濃い焦げ茶の木々が使われている。
そんな部屋の端から端までを、中年の男性がうろうろと歩いていた。
男性は、人の世にて“閻魔大王”といわれる存在であった。
黒と白、悪と善とを連想させる色の中間である灰色の衣服を身に付けていた。その衣服は、平安期に見られる貴族の大臣のようにも見え、大陸の中華の文化における道士が身につけるのような道服のようでもあった。
衣服には飾りはない。ただ、彼を飾り立てるのは彼の立派な髭であった。胸元まで伸ばされた髭は、衣服より濃い灰色であった。
彼の表情は決して明るくはない。眉間には深い皺が刻まれ、ふさふさとした豊かな眉毛は八の字を逆さまにしたかのように跳ねあがり、眉の下の目は血走り、カッ! と見開き周囲をぎょろりと睥睨していた。
彼は時には鼻眼鏡をくいくい動かし、時には髭をくいくい引っ張りながら、とても忙しなく部屋の端から端を行ったり来たりしていたのであった。
その歩みも徐々に速さを増し、髭が揺れ始めていた。
「……あの若作りめ! 余計なことをしおって!!」
彼は、盛大に舌打ちをした。まるで風船が破裂したかのような音であった。彼は苛々と部屋の中央に置かれた机へ足を向けた。苛々具合はかなり強いようである。
この部屋の唯一の灯りが置かれた机であった。
大小様々な白骨で組まれた、各閻魔に代々と伝えられてきた“骨組”というなの机……というより円卓、という方がより正確であろうか。
丸い大きなシルエット、しかし全ては骨を一つ一つ組んでいくことで形作っている代物。骨製であることには、実は意味がある。
円卓・骨組の机上の中央に設置された一本の蝋燭。蝋燭の根元、机との境界にそれはあった。
「生者を彼岸へ落としやがって……」
机上には、溶けた蝋が水溜まりならぬ蝋溜まりを形成していた。
――骨を伝い机上に広がる蝋溜まりは、組まれた骨に沿って模様を描いていたのだ。骨は、ただ組まれているのではない。骨と骨との間の溝を沿って蝋が伝い流れ、蝋がある模様を描くように組まれているのだ。
そして、その模様はいつも違う様を見せる。
それは、時には占い師の水晶のように閻魔の見たいものを映す。
それは、時には文字となり文章をあらわす。
そして今は、ある映像を映した後に、映すものが文章へと変わり始めていた。
ある映像――それは、奈落の闇の底を、ひとりの生者の娘が落ちていく、否落とされ落下していく様子であった。若作りこと朱色童子によって落とされたのだ。
朱色童子は、付き合いが永い彼でさえいまだに掴めない性格だ。その性格でさえ、朱色童子を朱色童子たらしめているといえた。朱色童子はトリックスターなのだ。矛盾してこそ、朱色童子らしいといえる。
彼は大仰に溜め息をついた。そして、変わり行く円卓の卓面に目を落とす。こいつも大概気紛れで、その点は朱色童子といい勝負だ。
ぎぎぎ、と骨が軋んで動いていく。その耳障りな音に、彼は顔をしかめた。この円卓を受け継いで――閻魔となって永い時を過ごしたが、この音にはいまだに慣れはしなかった。おそらく、このまま慣れはしない状態で任期は終わるだろう。次代が確かに選出されるべく、運命は動き出しているのだから。今も、それは絶え間なく動いている。その動きは誰にも止められない――トリックスターの朱色童子でさえ。
彼の目の前で、円卓・骨組はひとつの答えを導き出した。
円卓・骨組は閻魔となったものの知りたいものを知らせる。また、知らせなくてはならないものも、知らせる。そして、知りたいものに限ってなかなか知らせてくれない。
いま彼に見せているものは、彼に知らせなくてはならないものであった。
彼はそれを見て苦笑した。
「――吉とでるか、凶とでるか」
骨でできた円卓は、次代の子の父の名を記していた――つまり、朝陽の伴侶となるべき人物の、名を。
かつて次代の母を予言し、周囲に知らしめた骨の円卓。今回はついに父の名を予言した。それは、もうすぐ、今代の閻魔の時代も終末を迎えることを意味する。つまり、朝陽が伴侶を迎える時も近いということだ。
閻魔は万の単位で代替わりをする。
今代の閻魔の、彼の時代が終わろうとしていた。
代替わりの時まで、ちょうど一年の日、彼が閻魔になって九千と九百と九十九の年数が経過していた。




