朝陽と骸骨―1
骨塚朝陽の朝は早い。
チュンチュンと雀が鳴く声でぱちっと目が覚めて、ベッドからむくりと上半身を起こし、傍らのカーテンを勢いよく開ける。
「今日も、いない」
明るくなった室内を見て、大きな溜め息を吐いた。朝イチに溜め息、これは朝陽にとってここ一月の癖だった。
しばらくそのまま室内をぼんやりながめてから、ベッドから降りて軽くストレッチ。その後手早く着替えをすまし身支度を整えるために、洗面所へ向かう。
朝陽は大学生になってから独り暮らしを始め、今日でようやく一月が経つ。
ダイニングと部屋が一体となった単身者世帯向けの賃貸のこの部屋は、もちろん居住者は朝陽だけだ。
「あら」
しかし、暖簾で仕切られた洗面所の方からちょろちょろと水の音がするのだ。朝陽は昨夜きちんと蛇口の栓を閉めた……はずだ。
朝陽は首を傾げながら暖簾をめくりあげ、洗面所兼脱衣所を覗いた。
「あら」
そこには先客がいた。
繰り返そう。朝陽は独り暮らしだ。同居している恋人も友人も、もちろん家族もいない。昨夜に酔っぱらって一夜の過ちなんてものも断じてない。ペットもいない、そもそもペット不可だ。
なら、誰か。
「そこにいたの」
朝陽の目の前には、石鹸で手を洗う長身の骸骨がいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
骨塚朝陽、19歳独身彼氏募集中、想い人なし。大学進学にあたり、田舎から県庁所在地へと引っ越した。
田舎は大学のある県庁所在地からかなり離れており、通うのが無理だと判断したからだ。そして入学一月前の三月にここへ引っ越し、入居した。
家賃三万と幾らかの三階建ての築○十年のアパート。ここは大学が斡旋していアパートでもあるから、過去に不幸は無かったはずである。ネットで事前に調べたらから、なお間違いない。
しかし、“人だった”と過去形に分類される骸骨が脱衣所にいた。二本足で立ち、手を洗う様から見てわかるように、遺体ではない。
そして何より、朝陽が驚いていない。否、驚くはずもないのだ。
何故なら、骸骨を見た朝陽の顔はそれまでの無表情から、心の底から安堵したような笑顔に変化したのだから。
「引っ越したときついてこなかったから、てっきり成仏したかと思ったじゃないの」
この骸骨、朝陽が以前の住所所在地であった実家に住んでいたときから、一緒にいたのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇
朝陽が三歳のときだった。母が病で亡くなったのは。
『おかあさん』
母の死を、三歳の朝陽にはもちろん理解できなかった。いつもは必ず側にいる優しい母がおらず、寂しくて寂しくて泣いた。何故母が側にいてくれないかがわからず泣いた。
しばらく父との生活が続いた後、今度は父が急な事故で亡くなった。朝陽が五歳の頃だった。母がいない寂しさにどうにか耐え始めた頃だった。母の次に父まで亡くした朝陽は、たくさんたくさん泣いた。
『可愛そうに』
最初は、子供のいない叔母夫婦に引き取られた。
『笑わないのよ、この娘』
笑わない、と理由だけで幼い朝陽は他家へやられた。しばらくそれを繰り返した。
『可愛そうに』
最初は、朝陽を引き取った人はそういうのだ。
『笑わない娘』
けれど、皆そういって朝陽を用済みとばかりに追い出すのだ。
『お母さん、お父さん』
両親を亡くして以来、何度朝陽は心の中で泣いたのだろう。どれだけ涙を流したのだろう。
いつしか朝陽は笑わなくなった。朝陽の笑顔を見て一緒に笑ってくれる人がいないから。だから、朝陽は笑わなくなった。それが、朝陽が笑わなくなった理由。
奇しくも、他家へ他家へと追い出すされたことは、朝陽が笑わなくなったことに拍車をかけた。
『どうか なかないで』
あれは、いつだったか。その時も、朝陽は公園で一人砂遊びをして遊んでいた。どこの公園で、誰に引き取られていた頃かを、朝陽は覚えていない。
「だれ」
朝陽は一人砂場でお絵描きをしていた。その辺に落ちていた細長い木の枝で、一人で。周囲には誰もいない。“引き取られた笑わない子”である朝陽と一緒に遊んでくれる子はいないからだ。皆、“お母さんがあのこと遊んじゃいけませんていった”といって遊んでくれなかったのだ。
その理由を幼いながらも、朝陽は感じ取っていたから、朝陽も自分から他の子の輪の中に入っていかなかった。
だから、朝陽は一人だった。けれど、いつの間にか朝陽の横に誰かがいた。その誰かは、白く長い指で砂に字を書いたのだ。
「……おほねさん?」
朝陽が顔をあげれば、大きな大きな……骸骨がいた。立派な白骨が、朝陽の隣にしゃがんで座っていた。どこからどう見ても大きな大きな骸骨だった。一人過ごす朝陽のもとを訪れたのは、人ではなく人外だった。
がっしりと大きな骸骨は、朝陽に顔を向けてから砂場へ視線(?)をやる。
『はい わたしは ほねです』
平仮名ばかりの返答文だった。しかし国語の教科書よりも美しい字だった、骨で書いたというのに。
『…………』
朝陽はしばらく文を見て黙りこんだ。普通なら悲鳴なりなんなりあげて気を失う場面なのに、朝陽は淡々としていた。七歳という年齢にしては落ち着きすぎていた――仕方がなかった。寂しさを通りすぎたとき、朝陽は笑わなくなった……何も感じなくなったのだから。
「ほねでかいて、いたくないの?」
朝陽が抱いた感想はそれだった。肉のついていない骨で字を書いて痛くはないのか。
この時のことを、後に朝陽が大きくなってから、骸骨は『驚きました』と語った。その後、『痛覚はありません 心配してくださったのですね お優しくあることは 良いことです 』と書いて、顔を真っ赤にした朝陽から、蹴りという名のプレゼントを足にもらい“膝かっくん”を経験し、足の骨が崩れて朝陽と二人で必死に組み立てたのは別の話。
朝陽は七歳の時、骸骨と出会った。
その翌日、長らく海外に出ていた母方の叔父が戻り、朝陽の処遇を見て怒り狂い、親戚連中に怒鳴りこむことになる。怒り狂った叔父が朝陽を引き取り、星塚朝陽はこの日をもって骨塚朝陽となる。……母の旧姓は骨塚だったのだ。
その日以来、朝陽はずっと骸骨と一緒だ。
骨塚朝陽の日常は、七歳の頃より骸骨とともにあったのだ。朝陽の側にはいつも必ず骸骨の姿があった。
『わたしは あなたのそばに います いつまでも 』
朝陽と初めて出会った日、骸骨はそう書いた。
『だから あんしんして 』
朝陽は、その日初めてゆっくりとぐっすり眠れた。父が亡くなる前日以来だった。そして翌朝、顔を真っ赤にした叔父が怒鳴りこむまで、朝陽はぐっすりと眠り続けた。その傍らには骸骨が付き添い、骨の手で優しく優しく朝陽の頭を撫でていた。
それから、大学進学を迎え、引っ越すその日まで、骸骨は毎朝天井に張り付いていた。
「おはよう」
毎朝、天井に張り付いた骸骨を見ておはようの挨拶。
「何で天井?」
『落ち着きますから 』
毎朝、歯を磨く朝陽の横で手を洗う骸骨。
「洗う必要があるの」
『清潔を 保つためです』
そして無い頭髪を気にするような仕草をするのだ。
「いってきます」
『いってらっしゃい 』
学校や外出のときは留守番をしてくれていた。
「ただいま」
『肩を 揉みますか 』
一杯のお茶を入れて帰りを待ってくれていた。
「何で腰に刀?」
『たしなみです 』
何故か、初めて出会った日から腰に刀をぶら下げていた。カラフルだけれど渋いひもを、おしゃれに腰に巻いて、そこから黒く艶めいた鞘の刀をぶら下げていた。
茶目っ気に溢れ、面倒見のいい骸骨が朝陽は好きだった。
しかし大学に進学するために実家を離れるあの日、それは起きた。
『あなたに ついていきます 』
駅に向かうために、バス停で待つ朝陽に骸骨は付き添った。朝陽の手のひらに、長い指の骨の先ですいすいと文字を書く。
『わたしは あなたの側を離れないと 約束しましたから 』
他の人がいえばからかってるの? と思う言葉も、骸骨が語ればそうではないように思えるから不思議だった。
「ありがと」
朝陽が笑い、骸骨もカタカタと歯を震わせて笑う。最初は笑みとはわからなかったが、骸骨にいわせればこれは“にっこり”に該当するらしい。
骸骨は、ぎこちない仕草で朝陽の頭を撫でる。骸骨は朝陽より頭二つ分大きい。その骸骨が頭を撫でるとき、いつもおそるおそる――まるで、触れてしまうと朝陽が消えてしまうかのように撫でるのだ。薄く細かい飾りのガラス細工を持ち上げるときに似ている。
「わたしは消えないよ」
だから、朝陽はいつもそういうのだ。安心させるために。そして、骸骨がどこか遠くを見るように視線を逸らす――これがいつものことだった。
「ほら、行くよ」
バスが来て、朝陽の左側で止まる。人目があるから、朝陽は視線で骸骨に合図をする。そして乗り込み、後ろを見て――
「え?」
先程まですぐ側にいた骸骨が忽然と姿を消していた。
「え、」
戸惑う朝陽をそのままに、バスの戸が閉まり、バスが発車した。それから、次のバス停で人が乗るまで、その間ずっと朝陽はぼんやりと外を眺めていた――ぽかんと口を開けたまま。
再び、朝陽はひとりぼっちになった。
久々に過ごす“ひとりぼっち”の時間に、朝陽は孤独感に苛まれ、寂しさを日々募らせていき、ただでさえ感情表現に乏しい彼女の顔から、余計に表情がなくなっていった。
そんなとき、ようやく骸骨が朝陽のもとに戻ってきてくれたのだ。
また、再び朝陽と骸骨の日常が始まるのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「どこへ行ってたの? まさか成仏しかけてたの?」
朝陽が問えば、骸骨は首をゆっくり左右に振り、大きな手も振り「違う違う」と意思表示をした。
『あなたを 』
骸骨は、朝陽が用意した筆ペンですらすらと縦の文章を書き始めた。何故筆ペンかといえば、ただ単に使いやすかったからである。
朝陽が読めるように、ゆっくりゆっくりと、流れるような美しい筆運びで美しい手蹟で文が書かれていく。それを朝陽はうっとりと眺めた。骸骨の書く字は、書道の教科書に紹介されている昔の書聖とうたわれた名人のように美しいのだ。夏休みの書道の課題の時はよく手本にしたものだ。
『あなたを 探していました あなたと一緒に家を出たのですが はぐれてしまい 迷いに迷い ようやく 辿り着いたのです 』
申し訳なさそうに、骸骨は猫背になり、無い頭髪をかく仕草をした。この骸骨は妙に人間臭いのだ。
「そうだったの」
確かに、朝陽は引っ越し当日に骸骨とともに家を出た。しかし、家を出て五分もたたずに見失った。いきなりいなくなったのだ。だから、朝陽はてっきり成仏してしまったり、迎えが来たりしたのかと思ったのだ。
――もしくは、愛想をつかされたのかと不安に思ったなんて、それだけはいえなかった。