April Fools' Day (兄 九歳 / 妹 五歳)
――桜の花が咲き誇る春。
迦我見家の人々は、縁側で花見をしながら一家団欒の時を過ごしてた。
お茶請けに用意されたのは、もちろん桜餅。
口の中に残る和菓子の甘さを、緑茶のほろ苦い旨味が漱いでくれる。
祖父・龍一はぐいっとお茶を飲み干した後、母・朱音に尋ねた。
「それで、優奈はいつ帰ってくるんだ?」
「お夕食前には必ず送り届けます…と、鞠子さんが言っていたから、五時ぐらいじゃないかしら」
妻の返答に、父・透は気遣わしげな表情を浮かべた。
「優奈は人見知りしない子だし、葵ちゃんも一緒だから大丈夫だとは思うけど、本当に僕らも一緒に行かなくて良かったのかい?
鞠子さんの頼みとはいえ、子供服のモデルをやらせるなんて、やっぱり…」
不安を口にする夫の背中を、朱音は軽く叩く。
「鞠子さんが一緒なんだから大丈夫よ。
モデルと言っても、ポーズを決めた写真ではなくて、葵ちゃんと遊んでいる姿を撮るだけらしいわ。
それに、その写真は外には出さない、個人情報は一切公表しないって契約を結んだでしょう?
会員制のサロンでお得意様に電子カタログを見せる時だけに使用するから、写真が流出したり印刷される恐れはない…ということだし」
「でもなぁ…」
「優奈が珍しく自分から『やりたい』って言ったのよ?
あの子がやりたいことは反対せずにやらせてあげよう…って決めたじゃない。
あんなことがもう二度と起きないように守るのは大事だけど、過保護すぎるのも良くない。
家族会議でそう結論が出たでしょう?」
「うん、そうなんだけどさ」
不承不承頷く透の表情を見て、師匠であり義理の父でもある龍一は乾いた笑いを漏らした。
「お前のそんな情けねぇ面、百合子が見たら間違いなく張り倒すな」
「…っ!」
ビクッと背筋を伸ばし、表情を一変させた夫を見て朱音も笑う。
「そうね、お母さんが生きていたら…あなた叱られていたでしょうね」
「婆さまなら説教と一緒に、頬と腹に一発づつ、最後に蹴りが入ると思う」
最後に優人がそう付け加えると、透は眉毛を八の字にしてがっくりと項垂れた。
「――僕の味方は一人もいないのか」
透の呟きをスルーして、朱音は両手をパンと軽く打ち鳴らした。
「そういえば今日はエイプリルフールだったわよね」
「外国では本当に四月一日は皆が騙しあう日なのか?
俺には何が面白いのかわからねぇな。
人を騙すことを楽しむなんて、趣味が悪いとしか思えん」
「嘘だと解った後で笑いあえるような内容にするのが良いらしいよ。
ユーモアのセンスが問われるから、日本人には難しいんじゃないかな。
人を動揺させたり傷つけるだけの嘘しか思いつかないなら参加するべきじゃない…と僕も思う」
父と息子の会話が途切れるのを待って、朱音は自分が以前から心配していたことについて話した。
「私も優人の意見とほぼ同じなんだけど……優奈にはいい機会かもしれないと思って。
あの子、すごく素直でしょう?
人に言われたことをすぐに信じてしまうところが、ちょっと心配なの」
「そう言われてみりゃぁ、そうだな。
今まで騙すような奴が周囲にいなかったから、人を疑う必要がある…警戒しなくちゃいけねぇってことも、わからんのだろう。
そう考えると、あの事件の時の一因でもあるか…」
父の言葉に朱音は勢いづく。
「もうすぐ聖ラファエラに通うようになるでしょう?
新しいお友達やそのご家族に接する前に、『人は嘘をつくこともある』ということを、優奈に教えておきたいの。
だから、誰かあの子を騙してくれない?」
「「「…。」」」
朱音の台詞を聞くと、三人はお互いの顔を見合わせた。
真っ先に優人がリタイアを宣言する。
「ユーモアたっぷりの嘘なんて思いつかないから、僕はパス。
優奈に嘘をつくなんて、できそうもないし」
「そうね、優人には無理かもね。
…お父さんはどう?」
「俺も駄目だな、腹芸は苦手だ。
万が一優奈に泣かれでもしたら、すぐに嘘だってバラしちまいそうだ。
それじゃ駄目なんだろう?」
「すぐにネタばらししちゃうと、勉強にならないかもしれないから、少し経った後のほうがいいと思うの」
「……だそうだよ、父さん。
よろしくね」
ぼーっと家族の会話を聞いていた透は、息子にぽんっと肩を叩かれて目を丸くした。
「え?」
「何を驚いてんだ。
俺と優人がやらないなら、お前しかいないだろうが」
「ええっ!?」
透は妻を縋るような目で見つめた。
「ぼ、僕にだって無理だよ?
君のほうが適任じゃない?」
「あら、私はダメよ。
私が優奈に嫌われちゃったら、あの子私が作ったご飯を食べなくなるかもしれないし…。
そうなったら困るでしょう?」
にこにこ、にっこり。
妻の満面の笑顔に透は返す言葉を失う。
――こうして、憎まれ役は透に決まったのだった。
西日が部屋の中を茜色に染める頃、外から車のドアを開け閉めする音が聞こえてきた。
優人は読みかけの本を閉じ、窓のそばへと歩み寄る。
見覚えのある車に女性が乗り込み、走り去ってゆくのが見えた。
妹が無事に帰宅したのだろうと推察し、ほっと安堵の吐息をもらす。
いつの頃からだろう?
妹の姿が見えないと、何とも言いようがない不安に駆られるようになったのは。
優人は夕日を眺めながら、ぼんやりと考える。
あの事件の後だろうか?
いや、もっと前からのような気が…。
「優奈、待ちなさい!」
階下から父の叫び声が聞こえた瞬間、優人は考えるのを止めて自室を飛び出した。
階段を下りて玄関を見ると、父が呆然と立ち尽くしている。
「父さん、どうしたの?
優奈は…?」
背中越しに声をかけると、こちらを振り返った父は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「鞠子さんに送られて、今、優奈が帰ってきたところだったんだ。
嫌なことは早く済ませてしまおうと思って、定番の『嘘』をついたんだけど、もっとよく考えてからにすればよかった。
ああ、どうしよう…」
気が動転しているのか、父の説明は要領を得ない。
優人はできるだけ口調を和らげて訊いた。
「父さんの失敗は今はどうでもいいよ。
それで、優奈はどこに?」
「泣きながら、外へ走り出して行って………大変だ、探さなくちゃ!」
父は突然我に返り、妹の名を呼びながら外へと飛び出してゆく。
父が家の外へ向かったのを見て、優人は家の敷地内を探すことに決めた。
古くからこの地に居を構えていた迦我見家の敷地は広い。
長い樹齢を重ねる木や庭の花々の陰も恰好の隠れ場所となる。
優人はできるだけ気配を消して妹を探す。
父のように声をあげて自分の居場所を知らせるようなことはしなかった。
父の嘘を真に受けて逃げ出した妹は、きっと何処かに隠れて泣いている。
名を呼びながら探したら、優奈を更に追い詰めることになるかもしれない。
優人はそう考えて、静かに家の敷地内を探して歩いた。
四月になったとはいえ、まだ日が暮れるのは早い。
夕闇に沈む前に優奈を見つけ出さないと…。
家族の住む母屋の周辺、祖父と父の工房、蔵の陰、剣の神を祀る祠。
敷地内を探し回っているうちに、微かな人の気配を感じた。
優人は足を止めて気配を感じた方角を探る。
息を殺して耳を澄ましていると、不規則な息遣いが前方の左側から聞こえてくることに気がついた。
目を凝らすと、枝垂桜の樹の根本にうずくまっている妹を見つけた。
長く垂れ下がる枝と桜の花に守られているような姿に、一瞬時を忘れる。
「…ひぃっく」
嗚咽の声を耳にした途端、優人は冷静さをかなぐり捨てて優奈の許へ駆け寄った。
「優奈!」
「おにぃちゃん…?」
妹の大きな瞳から涙がほろほろと零れ落ちるのを見て、父への怒りが込み上げてくる。
(後で父さんを殴ろう)
優人は心の中で父親への制裁を固く誓いながら、妹の隣にしゃがみこんだ。
「嘘だから」
「…?」
「父さんが優奈に何を言ったのかは知らない。
でも、それは嘘なんだ。
今日はエイプリルフールだから…」
「えいぷりる、ふぅる?」
優奈が不思議そうに首を傾げると、また涙が流れ落ちた。
それをハンカチで拭ってあげながら、優人は答える。
「今日、四月一日は嘘をついても良い…っていう風習。
今日だけは嘘をつくことは悪いことじゃなくて、みんなで冗談を楽しむ日なんだ。
だから、さっき父さんが優奈に言った言葉は、本当のことじゃないんだよ」
優奈は何度も瞬きをして、兄の服の袖をぎゅっと握った。
「――じゃあ、ゆぅな、ここにいてもいいの?」
「え?」
「パパがね、ゆぅなは、ほんとうは、うちのこじゃないって。
ひろってきた、よそのこなんだよ…っていったの。
ゆぅな、だれかにすてられた、いらないこ、じゃ、ない?
ここに、いても、いいの?」
話しているうちにまた泣き出した妹を優人は抱きしめた。
「優奈は、僕の妹だよ。
父さんと母さんの娘で、爺さまと婆さまの孫娘で、僕のたった一人の妹だ。
誰かに捨てられて、拾われてきた子なんかじゃない。
ちゃんと血が繋がっている、本当の家族だよ」
「ほんとう?」
「うん、本当。
嘘じゃないよ」
兄の言葉に安心したのか、強張っていた優奈の身体から力が抜けてゆく。
妹の呼吸が落ち着くまで…と、背中を撫でているうちに日が暮れ、残照がわずかに西の空を染めている。
「…もう、へいき」
身じろぎした妹の鼻にティッシュをあて、鼻をかませてやってから地面へと降ろす。
そして手を繋ぎ、二人並んで母屋へ向かって歩き出した。
歩きながら、父が嘘をつくことになった経緯を簡単に説明する。
人は嘘をつくことがある、ということ。
その嘘の理由は様々で…簡単に善悪を判じることはできないけれど、自衛のために真偽を疑う必要もあること。
「今は、わからなくてもいいよ。
だけど、世の中にはいろんな人がいるんだ。
うちの家族はみんな、優奈のことを大切にしたいと思ってる。
でも、他のお家の人たちが、同じように思ってくれるとは限らないんだ。
だから…」
長々と続く兄の話の続きを、妹は先に口にした。
「しらないひととは、くちをきかない。
おかしをくれるといっても、ついていっちゃダメ……なんだよね?
ママからなんどもいわれてるから、だいじょうぶ」
「…本当にわかってる?」
「わかってるもん。
ゆぅな、もうすぐごさいなんだよ?
せんとらふぁえらの、ようちしゃにはいるんだから」
兄から子ども扱いされることに苛立ったのか、優奈はぷぅっと頬をふくらませている。
ごめんごめん、と兄が軽い口調で謝ったのも気に入らなかったようだ。
ほんの僅かな間、二人の間に沈黙が訪れる。
やがて、玄関の前までたどり着いた。
外灯に照らされた扉の前で、優奈は急に足を止めた。
「――優奈?」
「おにいちゃん、ゆぅな、ほんとうにこのおうちのこ?」
繋がれた手から、妹の震えが伝わってくる。
嘘だと教えられても、余程ショックだったのだろう。
家の中に入ることがためらわれるほどに。
(父さん、三発ぐらいは殴らせてもらってもいいよね?)
優人は心の中で妹を泣かせた父へ報復を誓いながら、その場にしゃがんで妹と目線をあわせる。
「この家は、優奈の家だよ」
妹は兄の顔を見上げて、不安そうに尋ねた。
「ほんとうに、ほんとう?」
「うん。
もしも父さんが言ったことが本当で、優奈がこの家の子じゃなくても、大丈夫だよ」
「…?」
「その時は、僕のお嫁さんになればいい」
優人はにっこりと微笑んでそう言った。
身の置き所のない不安を感じている妹が安心できるなら…と、考えた『嘘』。
もし血が繋がってなくても、家族になれる方法があるのだと伝えたかった。
妹は兄の提案に、ふるふると頭を振ることで拒絶の意を示す。
「――ゆぅな、おにいちゃんとはけっこんできないの。
もう、およめにゆくさきは、きまってるの」
「……え?」
驚きのあまり二の句が告げられず呆然とする兄に、妹は愛らしい頬を薄紅色に染めて言った。
「ゆぅなはね、はせがわへいぞうさまのところへおよめにいくのよ。
はせがわさまはね、ひつけとーぞくあらためやくで、すごくつよくて、かっこよくて、やさしいひとなの」
「…。」
兄が呆然自失している間に母が二人を探しに来たり、妹から嘘の内容を聞いた母と祖父がカンカンに怒ったり、家へ帰ってきた父を正座させてお説教したり、両親揃って妹に正真正銘の娘であることを説明したり…とそのあとも賑やかな一幕が続いた。
優人は祖父から『はせがわへいぞう』なる人物が江戸時代に実在した人物であること、祖父と妹が大好きな時代劇のTVドラマシリーズの主人公だということを教えてもらった。
その後、優人が祖母と縁のある人物の道場に通い、古武道(剣術・柔術・槍術・弓術)を学び始めたのは、また別のお話。
兄のキメ顔と台詞を台無しにする幼き日の妹(笑)
兄が自分磨き(?)を始めた切っ掛けとなるお話でもあります。
4月1日に間に合わせたかったのですが、大変遅くなってしまいました。
時事ネタなのに申し訳ない。
かがみさんのお家の前庭に植えられているのは、染井吉野。
裏庭に植えられているのが、枝垂桜。
優奈と葵と馨のアルバイト = 鞠子さんの洋服のモデル。
聖ラファエラは基本的にアルバイト禁止なので、お金ではなく着用した物の中で気に入ったものがあれば、現物(洋服等)支給をして頂いてます。
TV時代劇「鬼平犯科帳 (主演:中村吉衛門)」は、池波正太郎氏の作品が原作となっています。
→ 強くて優しくて有能で性格もいい「カッコイイ大人」= 渋専?(笑)
透を書いていると、どうもエリオットの影がチラついて…。
「女の子はお父さんと似た人を好きになる」法則にあてはめるなら、エリオット一択ですね(笑)