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風邪をひいてしまいました (兄 八歳 / 妹 四歳)


「――三十八度七分。

お医者様に注射を打っていただいたのに、まだ熱が高いわね…」


母・朱音(あやね)の気遣わしげな声を聞いて、優人(ゆうと)は目を覚ました。


母が耳式体温計を見ている。

耳で測る体温計は幼児用なのに…と思って口を開いたが、まったく違う言葉がこぼれ落ちる。


「母さん……ごめん」


「優人、目が覚めたのね。

ごめんって、なぁに?」


「熱を出して、寝込んで、母さんに迷惑をかけてるから」


「――莫迦ねぇ、子供がそんなこと気にしないの。

優人が今まで病気をせずに健康だっただけで、子供が風邪をひいて熱を出すのはよくあることなのよ?

迷惑なんかじゃないから、そんなことを気にするのは止めなさい。

インフルエンザじゃなくて良かったわね」


母は笑いながら優人の額に手を伸ばし、すっかり溶けてしまった氷嚢(ひょうのう)を除ける。


「でも…」


熱で朦朧(もうろう)とした頭では、言葉がすぐに見つからない。

母はそんな優人の額に手を置いて語りかけた。


「優人にとって、病気になるのはいけないことなの?」


母の手の冷たさが心地良い。

優人は目蓋を閉じて母の問いに答えた。


「そうじゃなくて……なんていうか、失敗したから。

風邪なんてひかないようにできたはずなのに」


「失敗?」


「うん。

まず、学校で、掃除をしないで…水を撒いた奴らの遊びに巻き込まれたこと。

そして、濡れちゃった運動服をすぐに脱がなかったこと。

僕がちゃんとしていれば、病気になんてならなかったと思う」


「…そう。

優人は、失敗した自分が嫌なのね?」


「うん」


「私は失敗するのって嫌いじゃないわよ?

失敗は成功の母…なんて言葉もあるしね。

優人と優奈(ゆうな)には『失敗しない子』よりも、『失敗を()かせる子』になって欲しいなぁ」


優人は母の言葉に驚き、ぱちりと目を開けた。


「失敗を…活かす?」


母は優人に優しい眼差しを向けながら、噛んで含めるようにゆっくりと話した。


「ええ、そう。

いつも誰かに褒められる『いい子』でいなくてもいいのよ?

でも、失敗をできるだけ減らしたいのなら、さっき優人が自分で言っていたみたいに『こうすれば良かったのかな?』って、考えるの。

原因や改善すべきところがわかったら、次にまた似たような状況になったときに活かせるでしょう?

二度目も失敗したら、三度目にまた頑張ればいい。

失敗したという経験から何かを学べるのなら、失敗は無駄なことなんかじゃないと思わない?

後になって、失敗からこそ巡ってきた幸運に気がつくこともある」


「…。」


「優人は、お母さんみたいな考え方は嫌い?」


「…ううん、嫌いじゃない」


優人の返事を聞くと、母は嬉しそうに微笑んだ。


「そう?

それなら、失敗したとか、迷惑をかけてるなんてこと、考えるのを止めなさい」


「うん、そうする」


優人が大人しく頷くのを確認してから、母はかいがいしく息子の世話をした。

汗をかいた寝巻きを着替えさせたあとで、林檎を摩り下ろしたものとプリンを食べさせた。

食後に医者から処方された薬を飲ませ、再び優人を温かい毛布と掛布団の中に入れて、氷を入れた氷嚢を額の上に乗せる。


「風邪をひいたときは、お薬を飲んで、栄養をとって、身体を温かくしてたっぷりと寝るの。

そうすればすぐに治るわ」


「…うん、わかった」


「優人が眠るまで、お母さんここに居るから。

安心して眠りなさい」


ぽん、ぽん、ぽん…と、母の手は布団の上から一定のリズムで優人の身体を優しく叩く。


「…。」


母の行動は、妹を寝付かせるときと同じだった。

そのことに気恥ずかしさを感じながらも、優人はゆっくりと眠りに落ちていった。




…闇の中から剣戟(けんげき)の音が聞こえてくる。


―――誰かがTVで…時代劇でも見ているんだろうか。



何かが割れる音、倒れる音が立て続けに聞こえてくる。

破壊の音。


絹を引き裂くような悲鳴と、地響きのような怒号。

驚愕と怒りの声。


―――何が起きているんだろう?



むせ返るような血の匂いを嗅いで、僕はこれが夢ではないことに気がついた。

寝台から飛び起きると、枕の下に隠してあった短剣を手に取った。

短剣のずしりと重さが、人を殺せる道具を手にしていることを教えてくれる。


早く行かないと。護ってあげないと。


―――何処に? 誰を?



妹のことも、兄である僕が守ってあげなくちゃ。


―――いもうと?



もっとよく周囲の状況を確認しようとしたけれど、何が起きているのか『解る』のに、はっきりと『見えない』。

薄っすらと霧がかかっているみたいに、すべてが曖昧だった。


ぐらぐらと世界が揺れる。

まっすぐに立っていられないのは自分だけなのか、世界全部が揺れているのか…。



足りない、力が足りない。

届かない、願っても叶わない。


何も失いたくないのに、何ひとつ守れない。



……さま、止めないで。放して。

嫌だ、僕だけ……なんて、嫌だ! 嫌だよ!


誰か、誰でもいい、助けて!

僕の家族を、妹を助けて!



世界が激しく揺れている。

胸を焦がすような激しい感情が渦巻いて、呼吸すらうまくできない。


「…っ!」


最愛の妹の名前を呼ぼうとした瞬間、優人は目が覚めた。


「―――おにいちゃん、だいじょうぶ?」


自分の手を握って心配そうな表情を浮かべているのは…妹の優奈だった。


「ゆうな?」


兄に名前を呼ばれると、妹は小首を傾げて返事をした。


「なぁに、おにいちゃん?」


「…。」


激しい心臓の鼓動と背中を流れ落ちる冷や汗を感じながら、優人は慎重に言葉を紡ぐ。


「今、地震があった?」


「ううん、ないよ。

あのね、ゆぅな、おにいちゃんをおこそうとして、ゆさゆさしたの。

おにいちゃんがくるしそうだったから…」


「そうか…そうなんだ?」


「おにいちゃん、こわいゆめでもみてたの?」


「怖い夢?

ああ、うん、そうかも…」


妹の質問に頷きながら、優人はさっきまで見ていた夢の内容を思い出そうとした。

しかし、何故か思い出せない。


「ダメだ、思い出せない」


しっかりと掴んでいた命綱が消えてしまったような…心にぽっかりと空いた喪失感に優人は首を傾げた。


どうしてだろう。

忘れちゃいけないことを、忘れてしまったような気がする。


考えに沈む優人を引き戻したのは妹の声だった。


「…おにいちゃん、おみず、のむ?

ぱじゃま、おきがえする?」


「うん、ありがとう」


優人は妹が差し出したコップを手にとって、ゆっくりと水を飲んだ。

ただの水のはずなのに、とても甘い。


コップの中の水をすべて飲み干す頃には、落ち着きを取り戻していた。

汗をかいた寝巻きを脱ぎ、枕元に用意されていたものに着替えて、優人は再び布団へもぐりこむ。


「優奈、僕の風邪がうつるといけないから、他のお部屋に行って遊んでおいで。

僕なら大丈夫だから…ね?」


そう声をかけると、妹はふるふると頭を振った。


「ママがかえってくるまで、ゆぅながおにいちゃんのそばにいるの」


「…母さん出かけてるの?」


「うん、ママおかいものにいった」


「…。」


母は外出中。

祖父と父は恐らく仕事場に行っているのだろう。


「優奈、いい子だから…」


優人はもう一度妹を自分から遠ざけようとした。

妹は兄の言葉を最後まで聞かずにぷぅっと頬を膨らませる。


「ゆぅな、ママにたのまれたんだもん。

ちゃんと、おにいちゃんのかんびょうできるもん」


「…。」


優奈は素直だし、聞き分けがいい子供だけれど、ごく稀に気の強さを垣間見せることがある。

この様子だと、母が不在の間は梃子でも動かないに違いない。


「おにいちゃんがこわいゆめをみたら、ゆぅながまたおこしてあげるね」


妹の言葉に優人は苦笑しながら頷いた。

布団から手を出して、妹のちいさな手をそっと握りしめる。


……大丈夫、大切なものは、ちゃんとここに()る。


妹と、両親と、祖父が居る場所が、『自分の居場所』。

何ひとつ、失くしてなんかいない。


優人は根拠のない不安を心の中で打ち消しから目蓋を閉じた。

妹がそばに居てくれるなら、きっと悪い夢なんて見ないと思いながら…。




――夕方、母・朱音は買い物を済ませて家に戻り、子供部屋に顔を出した。

オレンジ色の夕日の光が、幼い兄と妹を優しく照らしている。


「…あらあら」


優人の眠るベッドの枕元で、優奈が椅子に座ったまま眠っていた。


朱音は二人が手を繋いで寝ていることを不思議に思いながら、優人の額に手を置いて熱を測る。

昼間と比べるとだいぶ熱は下がったようだった。


朱音は優奈の背に毛布をかけたあと、床に落ちていた優人の寝巻きを拾う。


「…んー、母さん?」


寝ぼけた息子の呼びかけ声に、母はくすりと笑う。


「お夕飯ができるまでもう少し寝ていなさい」


小さな声でそう囁くと、音を立てないように気をつけながら部屋の外へ出ていった。



優人は半分ねぼけながら階下の炊事の音に耳を澄ます。

トントントン…と、リズミカルな包丁の音が響いていた。


「お粥と煮込みうどん、どっちがいいと思う?

病人にはお粥が定番だけど、熱があると味がわからないから…」


「…そうだなぁ、両方ってのはダメかな?

両方作って、優人には好きなほうを食べさせてあげればいい。

残ったのは明日の朝温め直して出してもいいし、僕らが食べてもいいし。

僕も何か手伝うよ、何をすればいい?」


「じゃあ、ゆで卵の殻を剥いておいてくれる?

サラダに飾りたいの」


「よし、任せといて。

サラダに使う野菜も洗っておこうか?」


「うん、お願い。

胡瓜一本と、レタス、それにプチトマトを…」


両親が相談をしながら仲良く料理を作っている。

優人はその声を聞きながら、夢と(うつつ)の境を彷徨(さまよ)う。


大丈夫、大切な人たちは、ちゃんとここに居る。

何ひとつ、失くしてなんかいない。


温かい家と優しい家族。

守りたい大切なもの。


失くしたりしない、絶対に。


そう決意すると、身体の奥からあたたかな力が湧いてくるのを感じた。

ふわふわと真綿に包まれているような心地よさを感じながら、優人は再び眠りの国へ落ちてゆく。



――食事を作り終えた両親が子供たちを迎えにきたときには、優人の熱はすっかり下がっていた。



後日、風邪をひいて熱を出した妹の傍から離れたくなくて学校をサボってしまった兄が、祖父に見つかってこっぴどく叱られた挙句『逆さ吊りの刑』に処されたりしたのは…また別のお話。




更新お待たせしました。


(ここ)は後で本編(テスト)に出るからね~」

(意訳 : 作中で解かれなかった謎は、本編への伏線の一部です)


ちなみに子供部屋(洋室)は、この時点では優人一人の部屋。

おもちゃ置き場とか本棚があるので、優奈の遊び場でもありますが、優奈は幼稚園まで両親の部屋で寝ていたため、夜は別々でした。


兄は中学入学のタイミングで一人部屋(祖父の和室)をもらったので、その後「子供部屋=優奈の部屋」に。


一応、本編の年齢の前(兄16歳、妹12歳)まで過去編を書く予定です。

過去編で本編の補完が終了したら、本編の更新に専念し、本編が終了したら番外編を開始…という感じになる…かも?

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