ぬいぐるみよりも頼りになります (兄 七歳 / 妹 三歳)
――台風の到来が予告されていた秋の夜、優人は雷の音で目を覚ました。
近くに落ちたのか、ドドォンっ…と地響きのような音も聞こえてくる。
稲光とほぼ同時に雷が鳴り、雨が激しく降り出した。
優人はガラス窓を叩く雨の音を聞きながら、温かい寝床を抜け出して時計を見る。
まだ真夜中と言える時間だった。
嵐が来ていても、家の中にいれば安全だということが解っているから、恐怖は感じない。
水を飲んで少し乾いた喉を潤そうと思い、静かに部屋の外へ出た。
音がしないように気をつけながら階段を下りると、薄明かりの中…一階の廊下に黒い影のカタマリが見える。
「…?」
優人は亡くなった祖母の言葉を思い出しながら深呼吸をした。
『―― 優人、幽霊なんてものはね、生きている人間に比べたら、煙や霞のような存在なんだよ。
こっちが気がつかなければ…気がつかないフリをして無視すれば、奴らはなぁんにもできないからね。
生きている人間のほうが、幽霊よりもよっぽど怖いし、厄介なものさ。
いいかい?
よぉく覚えておきな。
どうにもしようのないことないんて、ほとんどありはしないってことを。
怖いと思ったら、怯える前にその正体を確かめるんだ。
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから、しっかりと目を見開き、状況を確認する。
逃げ出すのはそれからでも遅くはないよ』
足音を殺して黒い影に近づくと、ソレが幽霊などではなく、可愛い妹の姿だということが分かった。
優奈は自分の背丈とほぼ同じ大きさのぬいぐるみを抱きしめて、廊下にうずくまっている。
優人は慌てて妹に駆け寄った。
「優奈、どうかしたのか?」
「にいちゃ、カミナリしゃま、ゆぅなのおへそを…とりにくる?」
目に涙をいっぱいためて震えている妹を、優人はぎゅっと抱きしめた。
「優奈、大丈夫だよ。
カミナリ様が優奈のおへそを取りに来ても、お兄ちゃんが追い返してあげるから」
「ほんとう?」
「うん、本当」
にっこりと笑って見せると、妹は恐怖に強張っていた表情をふっとゆるめた。
優人は指でそっと妹の涙をぬぐい、すっと立ち上る。
「カミナリ様はまだ近くにいるから、今夜はお兄ちゃんといっしょに寝ようか?」
「うん」
優奈は大きなぬいぐるみを抱きしめたまま、兄の言葉に頷いた。
妹の手を引いて自室に戻ろうとしていた優人は、わずかに表情を曇らせた。
「…優奈、そのぬいぐるみは大きいから、ここに置いてゆこう?」
兄の提案を、妹は頭を振って拒否した。
「ぃやっ。
くまちゃんはゆぅなといつもいっしょなの。
じぃじがくれた、ゆぅなのおともだちだもん」
「…。」
優人は心の中で祖父に恨み節を呟きながら片手で妹の手を握り、もう片方の手で熊のぬいぐるみを引きずりながら自室へと向かう。
窓の外から雷の音が聞こえてくるたびに、ビクッと身体を震わせて怖がる妹をなだめながら、ゆっくりと階段を登った。
優人は枕元にぬいぐるみを置く。
ぬいぐるみを抱きしめて寝たいと言う妹に、兄は笑顔で囁いた。
「優奈、熊ちゃんはね…カミナリ様と戦う力がないんだ。
熊ちゃんは、カミナリ様と戦ったら、真っ黒コゲにされちゃうんだよ?」
「くまちゃん、しんぢゃうの?
ばぁばみたいに、いなくなっちゃう?」
「うん、そうだね。
お兄ちゃんなら優奈をカミナリ様から守ってあげられるけど、熊ちゃんには無理なんだ。
抱きつくものがないと寝られないなら、お兄ちゃんに抱きついていればいい」
「…うん、そうしゅる」
妹は名残惜しそうに熊のぬいぐるみの頭を撫でたあと、おとなしく兄の布団の中に入った。
激しい雷雨の音が怖いのか、ちいさな手でぎゅっと優人のパジャマを握りしめている。
幼児特有の体温の高さが優人の冷えた身体を温めてゆく。
幼い妹が自分に頼り切っている姿は、優人の気持ちと庇護欲を高揚させた。
母が妹を寝つかせるときにやる動作を真似て、ぽん…ぽん…と優奈の背中を一定のリズムで軽く叩いているうちに、強く握られていたパジャマがするりと放されたことを感じた。
「…優奈?」
ちいさな声で妹の名を呼ぶ。
返事はなかった。
どうやら眠りについたようだ。
優人は妹のあどけない寝顔をしばらく眺め、幸せな気分に包まれながら、いつしか自分も眠っていた…。
――翌朝、目を覚ました妹の第一声が「くまちゃんは?」だったことに、兄は激しいショックを受けた。
その後、「にゃーにゃー」や「わんわん」と一緒に暮らしたい…という優奈の『おねだり』は、優人が頑なに反対したために叶えられず、可愛い小動物が迦我見家の一員に加わることはなかった。
優奈は昔からふわもこで手触りがいいものが大好きで、兄はソレらも積極的に妹の周りから排除してました…というお話。