濁り水の家-間宮響子-
雨の匂いがした。
だが、その家の玄関を開けた瞬間、間宮響子は理解した。
――これは雨ではない。
もっと古く、もっと腐っている。
水死体の肺から吐き出された水の臭いだった。
玄関には三十代半ばほどの男が立っていた。
顔色は悪く、頬はこけ、目の下には何日も眠っていない人間の黒い影が落ちている。
「……間宮先生ですか」
男は震える声で言った。
「長男の、真田圭介です」
家は札幌市に隣接する北広島市の住宅街にある築40年程の古い木造住宅だった。
妙な静けさがあった。
住宅街なのに音がない。
風が吹いているのに木が揺れない。
何より。
家そのものが濡れていた。
雨など降っていないのに。
壁。
玄関の柱。
天井。
すべてがじっとりと湿っている。
まるで巨大な何かの内臓の中に家があるようだった。
響子は足を止めた。
玄関の三和土に黒い水滴が並んでいる。
ぽたり。
ぽたり。
天井から落ちている。
だが、上を見ても染みはない。
水の出所がない。
「……いつからです?」
響子が訊く。
圭介はかすれた声で答えた。
「最初は、水の味でした」
居間に通されると、彼は語り始めた。
最初は些細だった。
水道水が少し鉄臭い。
古い配管のせいだろうと思った。
やがて、水に赤茶色の細かな粒が混ざるようになった。
錆だと思い業者を呼んだ。
異常なし。
近所も問題なし。
だが、この家だけ。
水が変だった。
「そのうち……ドブみたいな臭いがし始めたんです」
浄水器をつけた。
二日で壊れた。
新品に替えた。
三日で黒く変色した。
フィルターが腐ったように崩れた。
メーカーに送ったが原因不明。
「飲めなくなりました」
家族はペットボトルの水を買うようになった。
だが。
それでも終わらなかった。
圭介は震えながら言った。
「先生……この家、“水を欲しがる”んです」
響子の眉がわずかに動く。
その時。
――ぎゅ。
何かを踏んだ。
廊下の床。
足元が沈む。
濡れている。
否。
腐っている。
「仏間です」
圭介が言った。
襖を開けた瞬間。
響子の背筋に冷たいものが走った。
畳が沈んでいる。
仏壇の前だけ。
まるで見えないバケツをひっくり返したように。
黒ずみ、異様に柔らかい。
ぐちゅ。
ぐちゅ。
踏むたび音がする。
だが。
濡れているのに水がない。
染み込んだ湿気だけがある。
異臭。
泥。
ヘドロ。
腐った魚。
下水。
そして。
古い線香の匂い。
「夜になると……ここから音がするんです」
圭介の唇が震える。
「水を飲む音が」
響子は目を閉じた。
霊視。
瞬間。
頭の奥が激しく軋んだ。
――見える。
仏壇の前。
畳の下。
暗闇。
そこに。
“口”がある。
無数の。
老人。
女。
子供。
黒く膨れた顔。
水でふやけた皮膚。
目がない。
鼻が崩れている。
それらが重なり合い。
畳の下から。
上を見ていた。
喉を鳴らして。
「みず」
響子は目を開いた。
呼吸が荒い。
「……鬼門が開いてる」
家の北東。
仏間。
洗面所。
風呂。
トイレ。
台所。
一本の線で繋がっていた。
霊道だった。
それも異常なほど巨大な。
「この土地、何があったんです?」
圭介は青ざめた。
「知らなかったんです……最近、聞いたんです」
昔。
この土地には共同井戸があった。
戦後。
疫病が流行った。
遺体が増えた。
井戸水が汚染された。
だが人々は飲み続けた。
水を捨てられなかった。
飲んだ者たちは。
喉を掻きむしりながら死んだ。
そして。
井戸は埋められた。
――この家の真下に。
その夜。
響子は泊まり込んだ。
午前三時。
音がした。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
水滴。
だが。
音が増える。
ぽたぽたぽたぽた。
家中から。
響子は目を開けた。
暗闇。
足元が冷たい。
畳が濡れている。
違う。
水位が上がっていた。
床一面。
黒い水。
腐臭。
その中に。
立っている。
人。
否。
死人。
何十人も。
服が張り付き。
皮膚が剥がれ。
全員が濡れている。
顔が崩れている。
目だけが異様に白い。
そして。
全員が。
蛇口を見ていた。
キィ……
台所の蛇口が勝手に回る。
黒い水が流れ出す。
その水の中に。
髪の毛。
爪。
歯。
赤錆。
そして。
人間の指のようなもの。
死人たちが一斉に振り返る。
首が。
ありえない方向に曲がる。
口が裂ける。
「のみたい」
「のどがかわいた」
「かえして」
犬の鳴き声が聞こえた。
地下から。
既に死んだ犬だった。
圭介の家の犬。
土の中から。
喉を濡らすような音がする。
ごく。
ごく。
ごく。
その翌日。
母は吐血した。
肺に原因不明の水が溜まっていた。
父は酒しか飲めなくなった。
「水は駄目だ」
と泣きながら言った。
次男は部屋に閉じこもった。
壁に何百回も書いていた。
みずをのむな
みずをみるな
あいつがくる
観葉植物は全部腐った。
根が。
錆びていた。
植物なのに。
赤茶色に。
まるで血管みたいに。
響子は除霊を試みた。
塩。
祝詞。
経。
霊符。
全部。
濡れた。
火がつかない。
紙が腐る。
塩が黒く変色する。
その時。
仏壇の奥から。
声がした。
濡れた声。
老人とも女ともつかない。
「まだたりない」
畳が裂けた。
中から。
黒い水が噴き出した。
そして。
無数の手。
皮膚が剥けた指。
ふやけた手。
響子の足首を掴む。
頭の中に流れ込んできた。
飢え。
渇き。
苦しみ。
疫病。
井戸。
死。
最後に飲んだ泥水。
人々は死んでも。
渇いていた。
水を飲めず。
ずっと。
ずっと。
「この家が井戸になってる……!」
だが、もう遅かった。
家そのものが“喉”になっていた。
一週間後。
家は解体された。
原因不明の湿気被害。
行政処理。
だが。
仏間の下から井戸は出なかった。
何もなかった。
ただ、大量の水だけ。
黒く濁った生ぬるい水。
そして、その水の中から古い仏壇の鈴が見つかった。
誰の家のものか誰も知らない。
圭介一家は離散した。
母は療養施設へ。
父は失踪。
次男は未だ部屋から出ない。
圭介だけが生き残った。
だが――
半年後。
響子の元に電話が来た。
泣き声だった。
「先生……」
背後で。
ぽた。
ぽた。
水音。
「引っ越した先でも……水の味が変なんです」
沈黙。
そして、男は最後に言った。
「先生……最近、水が甘いんです」
電話が切れた。
響子は動かなかった。
ただ。
目の前のコップを見る。
透明な水。
だが。
なぜか。
底に。
赤茶色の細かな粒が沈んでいた。
その夜。
響子は人生で初めて、蛇口の水を飲めなかった。
そしてもし、今。
あなたが台所へ行くなら。
コップの底を見てほしい。
透明なはずの水に。
錆のような粒が沈んでいたら。
それは……飲まない方がいい。
渇いているのは――
あなたではないかもしれない。
―(完)―




