第五章 scene4 意識の奪還
伯爵を運び出した馬車は夜の森を抜け、静かな離れ屋敷へ辿り着いた。
扉が閉まる。
音が消える。
世界に、沈黙だけが残る。
ベッドに横たえられた伯爵。
目は開いているのに、世界を見ていない目。
かつて王を前に堂々と笑った男は、そこにはいなかった。
ただ、“薬で優しく殺されかけている男”だけがいた。
若い薬師が震える声で言う。
「……これは、“心を麻痺させる配合”です。痛みも、責任も、恐怖も、全部。“楽にするための毒”です」
エリーゼが唇を噛む。
「解毒薬は?」
「完全ではないでしょう。意識を取り戻す代わりに、痛みと記憶も戻る。本人が耐えられなければ壊れる”可能性があります」
静寂。
それを破ったのは、イリスとの対峙から合流したルミナ。
「構わないわ」
彼女の手が、伯爵の手を包む。
震えていない。
「“痛みを取り戻せない人”は、生きているとは言えないもの。この人は帰ってくるわ」
エリーゼが頷く。
「……やりましょう」
薬は静脈へ流れ込む。
心臓の鼓動がわずかに早くなる。
伯爵の眉がわずかに動く。
指がかすかに震える。
若い薬師の声が緊張で震えた。
「始まります……!」
伯爵の胸が大きく上下した。
呼吸が荒くなる。
歯が噛み合わさり、喉から搾り出すような声が漏れる。
「……や、め……やめてくれ……私は……守れなかった……」
ルミナの瞳が揺れる。
「カトリーヌ……
助けられなかった……また……また……!」
苦しむ伯爵の額から汗が流れ落ちる。
手を離そうとする。
逃げるように震える。
まるで罪に焼かれている男。
エリーゼが涙を堪えて伯爵の肩を押さえる。
「お父様!違う!あなたは逃げてない!
あなたは、わたし達を守ろうとしてた!!」
伯爵は聞かない。
いや記憶と罪悪感に“耳を塞がれている”。
ルミナは静かに笑った。
泣き笑いのように。
「そうね。あなたは“守れなかった男”」
伯爵の動きが止まる。
「その通りだわ。あなたは失敗する。間違える。
立てなくなることもある」
手を離さない。
「でもね“守れなかったから、価値がない”なんて言わせない」
声が震える。
「あなたはね。わたしの夫で、子どもたちの父親で、
この家に灯りをくれた人」
エリーゼの涙が落ちる。
ルミナの声が、震えながらも優しく包む。
「あなたは“守れなかった男”じゃない」
手を強く握る。
「“それでも守ろうとし続けた男”よ」
その瞬間。
伯爵の目から涙が溢れた。
荒い呼吸が、少しずつ落ち着く。
震えていた手が、ルミナの手を弱くしかし確かに、握り返した。
「……帰りたい……」
その言葉を聞いて、エリーゼが嗚咽を漏らす。
ルミナもついに堪えきれず涙を流す。
「帰りましょう。あなたの家は、まだここにあるわ」
伯爵の意識が
ゆっくり、静かに、現実へ戻ってくる。
若い薬師は震えながら呟いた。
「……信じられない……
こんな……“言葉”で人が……戻ってくるなんて……」
護衛副隊長が静かに答える。
「違う。それは“家族だから言える言葉”だ」
そして、伯爵は眠りについた。
今度は“逃げるための眠り”ではない。
帰ってくるための眠り。
部屋に満ちる静けさ。
ルミナは泣きながら笑った。
エリーゼは父の手を胸に当てた。
――伯爵は、まだ生きている。
そしてこの瞬間。
ただの家族の奪還ではなく「伯爵家が再び立ち上がる戦い」が始まった。




