第一章 scene3 父とイリス
扉の隙間から、ふたりの声がよりはっきりと聞こえた。
「……王家に睨まれれば、一家の命運が傾く。
だが、近づきすぎれば、飲み込まれる……」
父の声は低く震えていた。強くあろうとするのに、迷いが滲む声。
「ええ。とても難しい立場でいらっしゃいますわ」
イリスの声は落ち着いている。
慰めるでもなく煽るでもなく――ただ、寄り添う形をした鎖みたいに優しい。
「ですが伯爵様。“選ばれる家”は、常に危機とチャンスを両手で抱えているもの。今、逃げることは簡単です。
ですが――“伯爵家でなければならなかったもの”まで、同時に手放すことにもなりますわ」
父が息を詰まらせる気配がする。
「……私は……家を守りたいだけだ」
「存じております」
イリスの声がやわらかくなる。
「だからこそ、前に進むべきです。
立ち止まることは、“衰退”という名の後退にしかなりませんわ。
選ばれ続けるお家であるためには――
伯爵様が、“選ぶ側”でいなくては」
“逃げることは後退”
“進むことが正義”
言葉が、静かに背中を押す。
でもその方向は、
父が自分で決めているようで――
もう半分は、決められてしまっていた。
長い沈黙のあと、
父の声が落ちてきた。
「……そうだな。
私は……立ち止まっている暇などないのだな」
「はい。それに、伯爵様ひとりではありません。
私がおります。そして、伯爵様のために動く人々も」
イリスは軽く微笑む声で続ける。
「どうぞ……お一人で抱え込まないでくださいませ。
“頼る”ことも、立派な判断でございますわ」
その言葉には温かさがあった。
――けれど同時に、
“頼らなければ進めない体”へと作り替えていくような、静かな毒の温度もあった。
机の上の書類が擦れる音。
椅子の軋み。
そして父の短い息。
「……あぁ、すまない。少し、肩を貸してくれ」
イリスの声が柔らかくなる。
「もちろんですわ、伯爵様」
そしてそこで、私は気づかれたようだ。
イリスが振り向き、完璧な笑顔を浮かべる。
――もうすでに。
父のそばに一番“自然に”立つ位置は、家族ではなく、イリスのものになってしまっていた。




