第五章 scene3 母同士
伯爵の身体は軽かった。
あまりにも、軽すぎた。
エリーゼは崩れ落ちそうになる感情を、必死に奥歯で噛み砕きながら――それでも腕を離さなかった。
(お父様……必ず、戻す。必ず……)
護衛たちが馬車の扉を開ける。
ルミナが静かに言う。
「エリーゼ。行きなさい」
娘は一瞬だけ母を見る。その目に迷いはなかった。
「――必ず、治すわ」
「ええ。お願いね」
短い言葉。
でも“母と娘の無言の抱擁”のように強かった。
伯爵の身体が馬車へ運び込まれ、扉が閉まる。
御者に合図。
馬の蹄が石畳を蹴った――その瞬間。
「どこへ行かれるのです?」
夜の空気を裂く声。
月明かりの下、黒い影が―人の形を取った。
イリス。
美しく、冷たく、そして“確信に満ちた笑み”を貼り付けて立っていた。
馬がわずかに怯え、止まる。
兵士達の背筋に緊張が走る。
エリーゼが息を呑んだ。
その肩越しに、ルミナが静かに前に出た。
「エリーゼ。行きなさい」
それは命令でも、懇願でもない。
“母としての権威”だった。
エリーゼは振り返らない。ただ、強く頷き
「走って!!」
馬車は夜の闇を切り裂くように走り出した。
イリスの瞳が細くなる。
黒い髪が揺れ、唇がゆがむ。
「逃がすと、お思い?」
ルミナは笑った。
やさしく。凛として。
「止められるなら、止めてごらんなさい」
護衛たちは直感した。
――ここは戦場になる。
しかし剣は抜かれない。
魔法も飛ばない。
張り詰めた空気だけが、音を持って震え続ける。
イリスは歩み寄る。
ヒールの音が、石の上で冷たく鳴る。
「優しい顔。
崇高な覚悟。
“愛する妻”のつもり?」
嗤う。
「滑稽ですわ、ルミナ様」
ルミナは受け止めるだけ。
反撃しない。挑発にも乗らない。
ただ、“見ている”。
「あなたは伯爵様を守れる女じゃない」
イリスの声は静かに深く沈んでいく。
「あなたは“伯爵のため”と言いながら――
自分の“幸せな家族ごっこ”を守りたかっただけ」
その言葉は、鋭い刃だった。
だが、ルミナは――目を逸らさなかった。
「ええ、そうね」
彼女は、認めた。
イリスの瞳が一瞬揺れる。
「私は……幸せだった」
自嘲ではない。
虚勢でもない。
ただの“真実”。
「夫と、エリーゼと、マリアナと。
笑って、泣いて、喧嘩して。
毎日を生きていた」
胸に手を当てて、微笑む。
「それが“欲しかった”。
それを“守りたかった”。
――だからあなたの言葉は、当たっているわ」
イリスの指が震えた。
「でもね」
ルミナの瞳に炎が宿る。
「それは“誰も壊さない幸せ”だった。」
イリスの呼吸が止まる。
「あなたは違う」
ルミナの声が、刃となる。
しかしそれは、攻撃のための刃ではない。
“真実を切り出す刃”。
「あなたは、自分の不幸に世界を巻き込んだ。
あなたが壊れたから――“他人も壊していい”と思った」
夜風が、二人の間を通る。
月明かりがイリスの顔を照らす。
その目が――揺れた。
ルミナは、泣いていない。
怒っていない。
“悲しんでいた”。
「イリスさん」
名前で呼ぶ。
責めるためではなく。
見捨てるためでもなく。
ただ、人として。
「あなたは、伯爵を愛してなんかいない」
イリスの喉が鳴る。
「アイリスの母でもない」
「あなたが求めているのは――
“奪って満たされる自分”。
“掌に収めた時だけ安心できる自分”。」
イリスの指先が、ぎゅっと握りしめられる。
ルミナは静かに微笑んだ。
優しく。痛いほどに優しく。
「それは孤独よ。愛されなかった、選ばれなかったのではないわ。あなたが、愛さなかった。あなたが自分以外何も選ばなかったの。あなたが孤独を選んだのよ」
イリスの視界が揺れた。
胸の奥で、誰にも触れられたことのない場所が裂けていく。
(やめて。
やめて。
やめて……!)
心の奥の少女が、泣き叫ぶ。
その瞬間。
遠くで、馬車の音が消えた。
伯爵が、遠ざかっていく。
イリスの視界に涙が滲む。
息が乱れ、声が震えた。
「……あなたなんか……!」
叫ぼうとした。
罵倒で、怒りで、憎しみで――
いつものように、自分を守ろうとした。
しかし声が出なかった。
喉が締め付けられる。
胸が痛い。
崩れてしまいそうだった。
ルミナは近づきもしない。
抱きしめもしない。
手も差し伸べない。
ただ、そこに立ち――
“イリスの痛みを否定しなかった”。
それが、
なによりも残酷で――
救いだった。
イリスの涙は、一滴だけ。
月の光がそれを照らす。
彼女は、震える唇で微笑んだ。
「……ふふ」
冷たい笑みへと無理やり戻す。
「なら奪い返すことを選ぶわ。
わたくしは簡単には負けませんのよ、ルミナ様」
ルミナは目を伏せた。
戦いは終わらない。
でも。
今、この瞬間だけは“イリスの心が揺らいだ”。
それだけで十分だった。
夜風が吹く。
戦場は、
まだこの国全体に広がっていく。




