第五章 scene3 裸の騎士
闇の会議が終わり、イリスが去った。
扉が閉まる音が、妙に遠い。
アックスはその場に取り残され、ただ立ち尽くす。
ざわめきも消え、誰もいない部屋。
彼はゆっくりと息を吐いた。
(……引き返せない)
分かっていた。
とっくに分かっていた。
それでも心のどこかでまだ、
「いつか止まれるかもしれない」
「誰かが止めてくれるかもしれない」
そんな甘い幻想が、小石みたいに残っていた。
それがいま、静かに音を立てて、砕けた。
唐突に、記憶が蘇る。
幼い頃――
母が読んでくれた絵本。
「裸の王様」
周囲の誰もが、本当は“王が裸だ”と知っているのに。
誰も言わない。
“言わないほうが安全だから”。
“正しいと言われたほうが楽だから”。
最後に、ただ一人の子どもが叫ぶ。
『王様は裸だ!』
あの時――
幼いアックスは膝の上で目を輝かせて言った。
「母さん、俺はあの子どもみたいな人になるよ」
母は笑って、優しく頭を撫でた。
「ええ。あなたは“正しいことを言える子”。」
アックスは、ふっと笑う。
乾いた、ひどく弱い笑いだった。
(……言えなかったな)
今の自分は。王様が裸でも叫べない。
いや――
叫べる場すら、自分はとうに手放していた。
(イリス様は……主だ)
主君。
支配者。
でも、それだけじゃない。
彼にとって創造主 に近かった。
三男として生まれ、“居場所のない人間”。
夫にも父にも愛されず生きた女に拾われ、「必要だ」と言ってくれた女。
善悪ではなかった。
彼女がいなければ自分は “誰にもなれない”。
だから。離れられない
それだけだった。
アイリスは?彼女は“救い”だったろうか?
胸に手を当てる。
(俺は、アイリスを愛したか?)
沈黙。
彼女は優しかった。
必要としてくれた。
寄り添ってくれた。
でもそれは、
彼女が俺に寄りかかったから、俺も寄りかえしただけ――ただの依存。
愛ではない。
(じゃあ……マリアナは?)
喉が詰まる。
いつも真っ直ぐで。
泣いて。
怒って。
優しくて。
自分が“失いたくなかった世界”。
でも。
彼女を守らなかったのは、ほかの誰でもない、
自分だった。
そして――“母”
(俺は……母に、愛されていたのか?)
思い出す。
期待。
義務。
役割。
「いい子でいなさい」
「恥ずかしくない男でいなさい」
「“正しい”男でいなさい」
アックスはただ一度も、
“弱くていい”と言われなかった。
そう理解した瞬間。
胸の奥でなにかが崩れ落ちた。
(ああ……俺は)
誰も愛せなかった。
誰にも愛されなかった。
ただ“役割として存在しただけの男”。
膝がわずかに震える。
笑えてしまった。
(だったら……俺が最後に縋るのが“役割”でも、仕方ないだろ)
それしか無いのだから。
「……俺は、王様にはなれない」
少年の頃憧れた“正しい子ども”にも。
理想の騎士にも。
愛される男にも――
愛せる人間にも。
どれにもなれなかった。
だから。
せめて。
“イリスという王の従者”として生きる。
それが唯一、“ここにいた証”。
アックスは静かに剣を取る。
涙は落ちない。
泣くほどの感情すら、もう残っていない。
(これでいい)
そう思った瞬間、彼は完全に堕ちた。
悪へではない。“愛を諦めた世界”へ。




