表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/50

第一章 Scene3 父の変化

父は、立派な人だった。


真面目で、不器用で、でも優しくて。

難しい顔をして仕事の書類を見ていても、私や姉が声をかければ、最後には必ず表情がほどけていた。


「……ああ、少し休むか」


そう言って椅子を引き、笑ってくれた顔を、私はまだ覚えている。


けれど今、書斎の扉の向こうにいる父はもう、あの頃の父とは違っていた。


扉の隙間から漏れる声が、低く、焦っている。


「……王家は、ここまで踏み込んでくるのか……」

「ええ、ですがこれは伯爵様にとっても好機でございますわ。立場を固める絶好の足掛かりに」


姉エリーゼの亡き母の妹であるイリスの声が静かに重なる。

柔らかく、気遣っているようで――

それでいて、意図的に方向を決めてしまうような声。


書斎の中を覗くと、父は額に手を当てていた。

机の上には、王家や侯爵家の印章がついた書類がいくつも広がっている。


疲れている顔だ。でも、それだけじゃない。


何かを追い続けて、もうずっと止まることを許されていない人の顔。


私に気づいた侍従が、慌てて視線を逸らした。


イリスはゆっくりと振り向く。


「あら、マリアナ様。いらしていたのですね」


笑顔。

完璧な笑顔。

声の高さも、抑揚も、息遣いすら整えられた理想的な礼儀。


なのに、その奥にあるものが見えない。


「……お父様に、ご用かしら?」


「いえ……」


そう言いかけたとき、父がようやく顔を上げた。


「マリアナ」


名前を呼ばれる声は、昔と同じ響きをしていた。

それが逆に胸を締め付ける。


父は立ち上がろうとして、しかし途中で動きを止める。

イリスが一歩、自然な流れで前に出た。


「伯爵様。無理をなさらず。マリアナ様も、お父様のお邪魔をするのはお望みではありませんわ」


父は一瞬、迷うように私とイリスを見比べる。

そして――静かにイリスの言葉に従った。


その瞬間、胸の奥で何かが落ちた。


「……そうだな。マリアナ、今は少し忙しくてな。また時間を作ろう」


優しい声。柔らかい言葉。

拒絶ではない。


――なのに、確かに距離を置かれた。


「はい。お仕事、頑張ってくださいね」


言葉は自然に口から出た。

笑顔も作れた。

でも、心は追いついていなかった。


書斎の扉が閉まる。

閉ざされた空間に再び、政治と権力の匂いが沈んでいく。


私の隣で、通りがかりの使用人たちが小さくささやいた。


「伯爵様、最近お顔色が……」

「お家のためにずっと無理を……」


「でも、イリス様がいなければ、とっくに破綻していたわよ」


肯定とも否定ともつかない声。

ただ現状に慣れようとする諦めの音色。


私は、廊下の窓から庭を見下ろした。


あの頃、父と一緒に歩いた庭。

姉と笑って走った芝生。

母の歌が風に溶けて流れた夜。


すべて同じ場所なのに――

ここはもう、あの伯爵家ではない。


父は壊れてはいない。

でも、確かに何かが欠け始めている。


そしていま、その空白を満たしているのは――

家族でも、誇りでもなく。


ただ静かに根を張るように入り込んだ、

“イリスという存在”だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ