第四章 scene4 秩序の地獄
元レーヴァント領は一見すると、以前より“整って”いた。
道は静かで、喧騒はなく、役所の掲示板は規則でぎっしり埋まり、人々は列を作り整然と並ぶ。
混乱はない。
暴動もない。
空腹で倒れる子どももいない。
むしろ“改善された”ように見えた。
だけど違う。それは、静かな病室のような街だった。
「昨日より配給証の分類が変わりました。
医療優先者、労働優先者、非優先者。
順番をお守りください」
役人の声は柔らかい。怒鳴り声もない。
ただ、“冷静で正しい指示”。
列に並ぶ人々の表情は恐怖ではなく、“諦め”だった。
「……おい、俺の順番、後ろにずらされた」
「働けないなら優先度が下がるの、仕方ないよ」
「“公平”なんだ。文句は言えない」
“納得させられている”。
怒りではなく、“理解”によって人が縛られていく。
――効率的だから。
――合理的だから。
――誰もが損を最小限にするためだから。
そうやって、人が「感情を切り捨てること」を、
自然に“正解”として受け入れていく。
それがこの領地が抱いた“新しい秩序”。
レーヴァント子爵がいた頃、領民はしょっちゅう役所に文句を言いに行った。
「税が重い!」
「配給が足りない!」
「隣村が困ってるから融通してやれ!」
喧嘩腰で、泣いて、怒って、笑ってうるさくて、面倒で、でも――生きていた。
今は違う。
「税は?」
「合理化により一律になりました」
「病人は?」
「“労働価値”によって優先順位が決まります」
「子どもは?」
「働ける年齢になるまでは最低限を保証。
――ただし、最低限だけです」
これらは、どれも“冷静で、正しくて、反論しづらい理屈”。
だからこそ残酷だった。
フードを深くかぶり、マリアナは街に紛れていた。
肩には、姉から借りた古いマント。
誰も自分を知らない土地で、静かに人々を観察する。
(“誰も生きていない”)
そう思った瞬間、自分の喉が震えた。
人が笑っていないわけじゃない。
泣いていないわけじゃない。
でも、“心が動いていない”。
それが、なにより怖かった。
パン屋の裏で、小さな少年が古いパンを抱えていた。
マリアナは、何気なく声をかける。
「……おいしそうね」
少年は首を振る。
「きのう配給で余ったやつ。僕は“非優先”だから、
食べられるの、夜だけなんだ」
胸が痛む。
「非優先ってあなたは病気? けが?」
少年は淡々と答えた。
「違うよ。“今すぐ役に立てない子ども”だから。
でも“正しい”んだよ。働ける人が先なんだ」
その目は諦めでも、不満でもない。
ただ、“理解している目”。
それが一番、怖かった。
(……これが、“イリスの世界”)
誰も泣かない。
誰も叫ばない。
誰も戦わない。
だって、みんな“納得してしまっている”。
“正しさ”に。
そのとき。
「あなた……旅の人ね?」
声のした方を見ると、目に強い影を宿した女性が立っていた。
――レーヴァント子爵の妻。
彼女は笑った。
強い。けれど、壊れかけている笑顔。
「ねえ、知ってる?この領地は、“幸せ”になったのよ」
笑いながら、涙が落ちる。
「誰も困らない。最低限は与えられる。混乱もない。死人も出ない」
声が震える。
「ただ“生きてる実感”だけが、全部なくなったの」
マリアナは拳を握った。
胸が痛い。
喉が焼ける。
(……この世界は、人を壊すために、優しすぎる)
だから怖い。
だから残酷。
怒鳴る悪は分かりやすい。
剣を振る悪は倒せる。
でもこれは静かに“人の心を削り落とす悪”。
“正しさ”という名前をした地獄。
マリアナは、はっきり理解する。
これは、ただの家族の問題じゃない。ただの婚約破棄の話じゃない。“世界の形”が壊されている。
その瞬間、胸の奥に、燃える痛みが走った。
「……守る。絶対に」
誰も聞いていないところで呟く。
泣かない子どもも。
笑えない大人も。
“理解してしまうことで壊された人たち”も。
全部、取り戻すために。
そして――
もう一つの疑問が胸に刺さる。
(……これは本当に、イリスだけの仕業?)
あまりに整いすぎた管理。社会全体へ広がる“理性的支配”。
背後に――もっと大きな影がいる気がした。
マリアナは、空を見上げた。
その瞳は、覚悟に燃えていた。
レーヴァント子爵夫人は笑いながら泣いていた。
「……わたくし、間違っているのかしらね。
領民は皆、生きているわ。でも、“生きているだけ”なの」
見上げた空は晴れているのに、どこまでも色がない。
マリアナは、その横顔を見つめる。
ただの領主の妻じゃない。
ただの被害者じゃない。
――愛しているからこそ、この地獄に耐えている人。
(……なら)
マリアナは、ゆっくり一歩、近づいた。
「ねぇ。もし“取り戻せる”と言ったら、あなたはどうしますか?」
夫人は目を瞬いた。
「……取り戻す?」
「はい」
マリアナは迷わず言った。
「“正しいだけの世界”じゃなくて。泣いて、怒って、笑って“ちゃんと人が生きてる領地”に」
風が止まった気がした。
夫人の視線が、まっすぐマリアナに向く。
弱かった光がほんの少しだけ、火を宿す。
「……あなた、それがどれほど危険な言葉か分かっていて?」
「ええ。分かってます」
マリアナは微笑んだ。
弱さのない、戦う人間の笑み。
「だから、あなたの力を借りたい」
言葉は静か。でも宣戦布告だった。
「レーヴァント子爵を、こちら側に“戻して”いただけますか?」
夫人の目が見開かれる。
「……あなた、“ただの娘”じゃないわね」
「“ただの娘”でいられるなら、こんなところまで来ませんよ」
冗談みたいに言って、それでも笑わない。
夫人はしばらく黙りやがて、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
膝を折り、マリアナの前で頭を下げた。
「――どうかわたくしに、“戦う理由”をください」
その瞬間、冷えた領地の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
誰も騒がない。
誰も気づかない。
でも確かに“反抗の火”が灯った。
イリスの冷たい理性に支配されていた世界に、ひそやかで、しかし確実な“逆流”が生まれた。
そしてマリアナは思う。
(……やっと、“味方”をひとり掴めた)
胸が少しだけ温かくなる。
戦いは、まだ序章。でもここが始まり。
マリアナはそっと手を差し伸べる。
「一緒に、取り返しましょう。レーヴァント夫人」
その手は震えていなかった。




