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第四章 scene3 静かなる侵食

かつて、伯爵家の象徴は伯爵その人だった。


重厚な声。

揺るがぬ眼差し。

己の傷も責務も抱えた上で、堂々と立つ背中。


――今、その場所に立っているのは、イリスだった。


初夏の夜。

貴族街の中心にある大広間で行われる夜会。

煌びやかな照明と笑い声の中――

伯爵家の席だけが、ほんの少し違った空気を纏っている。


「伯爵様はご体調の都合で、本日は欠席でございます」そう告げる声は、穏やかで優雅で――確信に満ちていた。イリスは柔らかく微笑み、会場全体を“安心させる空気”で包む。


「けれどご安心くださいませ。伯爵家は何ひとつ揺らいでおりません。むしろ今こそ、強く、賢く在り続ける時でございますわ」


ドレスの裾が揺れ、美しい指先が、グラスの縁を滑る。


その身に宿るのは、かつての“家族の保護者”ではない。

――支配者の顔だ。


そして、その隣にはアックスがいた。


軍服に似た正式礼装。

鍛えた背筋。

もはや“若き騎士”ではない。


**「伯爵家の代行者」**としての男。


彼がそこに立つだけで――

周囲は安心する。


「これなら、伯爵家は大丈夫だ」

「理性ある大人たちが舵を握ってくれている」


だがそれは、安心ではなく――麻酔だった。


イリスは優しく笑いながら、静かに手を伸ばす。


「近年、国全体が不安定ですわ。こんな時だからこそ、“古い感情論”より、“現実的で冷静な判断”が求められますでしょう?」


うなずく侯爵夫人。

沈黙する若き貴族。

視線を交わす紳士たち。


「感情は、時に国を壊すのです。だから“痛みを感じない判断”が必要」


その言葉は、優しい。


耳ざわりがよく、理性的で、誰も否定できない“正論”に見える。それが毒だとも知らずに。


アックスは口を開く。


「伯爵家は責務を果たす。この地を、仲間を守るためにな。だから、必要なら迷わず切り捨てる」


静かな声。だが会場全体を震わせる確信。

その言葉は、戦いの叫びでも、脅しでもない。“覚悟”の顔をした冷酷。


それを聞いた多くの貴族たちは不思議な安心を覚えた。


(ああ、この男は“迷わない”。この家は“揺れない”。

だったら、従っていればいい)


――考える必要がなくなった瞬間。

人は、自ら鎖を選ぶ。


そして貴族社会は、静かに、だが確実に歪み始める。


「最近、伯爵家の判断が早い」

「妙に“冷静で整った決断”が増えた」

「でも……助かっているのは確かだ」


救われる。

楽になる。

責任を押しつけられずに済む。


だから疑わない。

イリスは微笑む。

完璧で、優しくて、“誰よりもこの国を想っている”顔で。


アックスは、その“正しさ”の盾となる。


誰より誠実で、誰より真っ直ぐな男が今や、最も危険な「正義の象徴」となっていた。


こうして。

伯爵が表舞台から消え、イリスが代行となり、アックスが理性の剣となった時。


貴族社会は――

静かに、

静かに、

洗脳され始める。


誰も叫ばない。

誰も血を流さない。

革命でも戦争でもない。


ただ常識が塗り替えられる。


気づいた時にはもう遅い。


夜会の灯りの中で、イリスはグラスを掲げた。


「では“より静かで秩序ある世界”へ、乾杯いたしましょう?」


静かな拍手が広がる。

美しい、優しい拍手。


その音は世界が壊れる前に鳴る、“幸福な鐘”の音だった。

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