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第四章 scene2 崩れゆく意識


世界は、いつからこんなにも “柔らかく” なったのだろう。


かつては鋭い刃のように並んでいた思考が、いまは、湯に沈めた鉄のように、形を失っていく。


「……今日は、何の日だったかな」


自分の声が、自分のものではないように響く。


机の上。

書類がある。

見覚えがある印章。

積み上がる決裁。

――見なければならないもの。


理解はしている。

理解はしているはずなのに。


視線が滑る。

文字が遠い。

意味だけが、霧の向こうに逃げていく。


(私は……何を守っていた?)


“伯爵として”

“夫として”

“父として”


そのすべてがいつの間にか遠ざかっていった。

“楽にして差し上げましょう” と言われた夜を思い出す。


イリスの優しい笑顔。

温い杯。

静かに落ちていく感覚。


あの夜から、痛みが減った。

胸を締めつける焦燥も、責務に叩きつけられる緊張も、何ひとつ守れなかったあの忌まわしい後悔もぜんぶ……ゆるやかに、溶けていった。


(これは……救いだ)


そう思いたい。

そう思うたび、心が軽くなる。


だから。


“考える必要がない”。

イリスが言ってくれる。

アイリスが整理してくれる。

アックスが支えてくれる。


ならば私は、“頷いていればいい”。


「伯爵様、こちらをご確認くださいませ」


イリスの声。

やわらかく、優しく――

しかし逃がさない手綱。


伯爵は、ゆっくりと笑う。


「ああ……君たちに、任せるよ」


伯爵の口がそう言うとき。


“家の主”の声ではなかった。

“眠りたいだけの男”の声だった。


そして、伯爵は気づかない。


これは救いではない。

静かな窒息 だということに。


カトリーヌ、エリーゼ、マリアナ

君たちは今幸せに違いない




アックスの実家――

侯爵家でも伯爵家でもない、中堅子爵の居間。


母は手紙を読み、父は椅子に腰掛けたまま、何度もその文面を確認していた。


「……本当に、結婚したのね」


母の声は震えていた。悲しみではない。安堵と、誇り による震え。

「三男坊が……伯爵家の血筋になるなんて」


父は静かに息を吐き、しかし口元は笑っている。

「昔は、心配ばかりかけた男だったのにな」


幼い頃から要領が悪く、兄たちの影に隠れがちで、不器用なくせに、妙に真面目で――


「“どこへ行っても中途半端な男だ”なんて言ってしまった日もあったね……」


母が目頭を押さえる。でも、今は違う。


「伯爵家のために尽くし、最後に“選ばれた”のはアックスなんだね」


“正義の味方みたいに正直だったから”と母は笑う。


しかし、父だけはほんの少しだけ、目を細めた。


「しかし妙だな」


「え?」


「結婚式が……あまりにも静かすぎる。正式な発表も小さい。君はどう思う?もっと華やかでもいいだろう」


母は首を振る。


「最近の伯爵家は、いろいろあったのでしょう?

配慮して控えめにしただけよ。それに、あの子は幸せそうにしていたのでしょう?」


父は、それ以上何も言わなかった。

ただ――胸の奥に小さな違和感を残したまま。


「ああ、それでもいいさ」絞り出すように言う。

「あいつが“自分で選んだ道”なら――親は、誇るしかない」


母は微笑み、父の手を握る。


知らない。

二人はまだ知らない。


それが“選んだ道”ではなく、追い詰められて辿り着いた先 であることを。


ただ家族として、素直に祝福した。

息子が “勝ち取った未来” を。


やがてゆるやかに彼を壊していく檻だとも知らずに。

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