第四章 scene2 結婚という名の檻
結婚式は、驚くほど静かだった。
本来なら、盛大で華やかで、街中を巻き込むべき慶事のはずなのに、この式は、屋敷の奥でひっそりと行われた。
祝福はある。
拍手もある。
笑顔もある。
けれど、そのどれもが“控えめ”で、“慎ましやか”で。
まるで、「これは大声で祝うべき幸せではない」とでも言いたげな空気。
(いや……違う)
――誰も気づけないだけだ。
この結婚は、祝福ではなく、支配の完成式 だということに。
⸻
アックスは正装の襟を少しだけきつく感じていた。
何も間違っていない。
むしろ誇らしい。
未来を選んだ。
責任を選んだ。
家を守る道を選んだ。
そう、自分に言い聞かせ続けて、ここまで歩いてきた。
(俺は、これでいい。これで――いいはずだ)
アイリスは、花のような笑顔を浮かべて隣に立っていた。
薄紅の礼服。
滑らかな髪。
完璧な淑女の微笑み。
そしてその瞳は――
ただひとりの男だけを見つめる、優しい光で満ちている。
アックスの胸が締めつけられた。
この光だけが、自分を“正しい場所”に繋ぎ止めてくれているのだと、はっきり分かってしまったから。
(……俺は、もうこの人なしでは立っていられないんだな)
自嘲めいた呼吸。
理解はしていた。
でも、抗えなかった。
司祭の声が響く。
「――互いを支え、共に歩むことを誓いますか?」
一瞬、アックスの脳裏に浮かんだのは、
泣きながら笑っていたルミナ。
遠ざけられるエリーゼ。
背を丸め始めた伯爵。
そして――
婚約破棄の場で、壊れないように歯を食いしばっていたマリアナ。
(……悪かったな)
もう戻れない。戻る道は、自分自身の手で切り捨ててしまった。
アックスは、微笑んだ。
“騎士の顔”ではなく、“逃げ道を捨てた男の顔”で。
「――誓う」
その瞬間。
アイリスの指が、アックスの手を強く握り返した。
(逃がさないわ)
声にはならない。
ただ、指先の温度だけが伝える支配。
「誓います」
アイリスも答える。
清楚な声で。
美しい声で。
――そして、冷たい声で。
⸻
誓いは終わり、指輪が交換される。
拍手が響く。微笑が並ぶ。人々は満足げに頷く。
「よかったですね……」
「これで伯爵家も安泰でしょう」
安堵の声。
安定の空気。
そのすべてが、この結婚の意味を――完璧に取り違えていた。
•
控え室。
式が終わったあと。
二人きりになった部屋で、アックスは深く息を吐き、壁に背を預ける。その表情には、勝利も幸福もない。
ただ――
“ようやく肩に根付いた鎖を受け入れた男” の顔。
そこにアイリスが足音もなく近づく。
「……お疲れ様でしたわ、アックス様」
柔らかく微笑む。
優しい声。
包むような眼差し。
それだけで、胸の奥の痛みが少しおさまる。
(助けられてる……俺は)
それを認めるのは、少しだけ情けない。
でも――認めてしまったほうが楽だ。
アックスが何か言葉を探す前に。
アイリスは、そっと彼の胸へ額を預けた。
「これで……あなたはもう迷わなくてよろしいのです」
囁き。
その言葉に、背筋がわずかに震える。
「“わたくしが正しさを示します”。
あなたはただわたくしを信じていればいいのですわ。」
甘い。
毒にも、蜜にもなる声。
アックスは腕を伸ばし、自然と、彼女の背に触れていた。
(ああ……)
これは、救いだ。
同時に――逃げ場を奪う檻 でもある。
でも。
それでいい。
それを望んだのは、自分なのだから。
アックスは目を閉じた。
そして、静かに笑った。
「……頼む。間違えないでくれよ、アイリス」
アイリスは、微笑む。
その笑みは花のように美しくて。
冷たい刃物のようだった。
「大丈夫。
だって、わたくしは“母様の娘”ですもの」
その瞬間。
扉の外。
イリスは静かに目を閉じ、微笑んでいた。
これで、伯爵家は 完全に“わたしたちの手”の中。
婚約破棄はただの通過点。
今日が、本当の始まり。
静かな祝宴の裏で――
この屋敷の運命は、決定的に傾いた。




