第四章 scene1 裏会議
夜の伯爵家は静かだった。
廊下には最低限の明かりだけが灯され、屋敷全体がまるで“眠るふり”をしているみたいに動きを止めている。
しかし一ヶ所だけ、灯りの消えない部屋があった。
イリスの私室。
だけど、そこは「休む場所」ではなかった。
今は――完全に、“指揮所”。
机の上には地図。
王都の商流図。
伯爵家を中心に広がる勢力関係。
領地収支の資料。
いくつもの政治家の名前と線で結ばれたメモ。
そして、その中央に細い線で大きく囲まれた一つの文字。
《伯爵家》
イリスは椅子に座り、静かに指を組んだ。
「……さあここからが本当の“始まり”ね」
優しい声。淑女の微笑み。
でも、そこに“優しさ”は一滴もなかった。
その時。コツ……コツ……コツ。
夜には似つかわしくない、控えめなノック。
イリスは静かに微笑う。
「どうぞ。合言葉は?」
扉の向こうで、男の声が低く囁いた。
「――《貴族は、形である》」
イリスは満足そうに頷く。
「ええ。そして――《形を作るのは、私》」
扉が開く。
入ってきたのは二人。
黒衣の文官。
そしてローブを纏い顔を半分隠した女。
どちらも、伯爵家の人間ではない。
「お久しぶりです、イリス様」
文官が恭しく頭を下げる。
「王城での件、無事通りました。“伯爵家は情緒不安定ゆえ、政治判断は補佐が必要”そういう認識が、じわじわ広がっております」
イリスは目を細める。
「ありがとうございます。あとは“補佐が実質の判断者”になればいいだけですわね」
「しかし、婚約破棄は予想以上に世間の注目を集めています。あの日の出来事は、大きく――」
文官が言いかける。
イリスは止めるように指を軽く振った。
「問題ありません。“愚かな少女が感情で家を捨てた”
それだけの物語にすればいいのです」
そこに迷いは一切なかった。
次に、ローブの女が一歩前に出る。
「イリス様。“例の飲み物”についてですが――」
イリスは微笑んだ。
「あら、伯爵様の状態は?」
「とても……扱いやすい状態です」
女は静かに告げる。
「痛みも罪悪感も鈍くなり、判断は“楽な方”に流れます。感情のために戦う体力は、もう残らないでしょう」
イリスは軽く笑った。
「いいのです。あの人はもう“王国に必要な男”ではない。ただ“象徴として、そこに座ってくだされば”」
それは愛する姉の夫であり、かつて共に悲しみを分け合った男の話をしているとは思えない冷徹さだった。
ローブの女は静かに続ける。
「ただ……一つだけ誤算がありました」
イリスは目を細めた。「エリーゼ」
部屋に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「ええ。あの方が“あの状態で終わらなかった”のは、計算外」
イリスは、自分の爪先を見つめながら小さく呟く。
「でもいいのよ。“姉の形見”ですもの」
声は優しい。内容は残酷。
「壊してしまうのは可哀想よね。だから“正しい場所に飾りましょう”」
ローブ女が言う。
「ルミナ様も逃げましたね」
イリスはそこで、はじめてほんの少しだけ目つきを変えた。
「ええ……あの女は、本当に最後まで邪魔」
その言葉には感情があった。
嫉妬。
憎悪。
執着。
しかしそれも、一瞬で消える。
「でも大丈夫。逃げた人間は、“戻る場所を失うだけ”。そのうち、自分達が“間違いだった”と気づくでしょう」
イリスは立ち上がる。机の上の地図に、指を滑らせる。
「次の段階へ進みますわ。
伯爵家の政治機能は、私が握る。経済の要は、私が整える。世論は、母娘で掌握する。
そして、この家は“私の正しさ”で完成するわ」
その時。遠くで夜鐘が鳴る。イリスは微笑んだ。
「マリアナ、あなたも、エリーゼも、ルミナも。好きなだけ走るといいわ」
瞳が冷たく光る。
「最終的に辿り着く先が、“私の敷いた道”であることをどうか、忘れないで」
その夜。王都の闇の中で。
静かに――
伯爵家乗っ取り計画の『第二段階』が動き始めた。




