第四章 プロローグ 嵐のあとで
婚約破棄の翌朝、伯爵家は驚くほど静かだった。
誰も騒がない。
誰も怒らない。
昨夜の出来事などなかったかのように、屋敷は整然と整えられた呼吸を続けている。
それは“平穏”ではない。
“管理された静けさ”だ。
イリスは窓辺に立ち、遠くの空を見上げていた。
雲はゆっくり流れ、太陽は昇る。
世界は止まらないし、破滅もしない。
――つまり、成功。
「これでいいのです。この家はようやく、“正しい形”へ戻り始めた」
彼女はそう静かに思う。
マリアナは「理想」と「感情」を掲げて飛び出した。
人はそれを“勇気”と呼ぶだろう。
称賛に値する行動だと、きっと語られるだろう。
だがイリスにとっては、それはただの“未熟な者の退場”。
感情で動く者は排除される。揺らぐ者は外へ出ればいい。残るべき場所に、残るべき人間だけがいればいい。そうして伯爵家は“強くなる”。
だから、昨夜の騒動は「崩壊」ではなく、むしろ “余分なものが削ぎ落とされた再構築” だった。
伯爵は従い、アイリスは空気を掌握し、アックスは剣となる。
準備は整っている。もう「止められる側」ではない。「形を作る側」なのだ。
だというのに。
イリスは、ほんの少しだけ目を細める。
胸の奥で、微かな違和感が残っていた。
昨夜、マリアナが見せた目。あれはただの少女の反抗ではない。“なにかを知ってしまった人間の目”だった。
そしてもう一つ。エリーゼ。
彼女は守られる弱者であるはずだった。眠り続け、保護される象徴であるはずだった。
なのに、立っていた。
馬車の前に。
妹の前に。
意志を持って。
「……ええ、だからこそ」
イリスは手すりに触れ、静かに微笑む。
だからこそ、面白い。だからこそ、完璧に整えなければならない。
「あなたたちがどれほど走ろうとたどり着く先は、私が用意した“道”ですわ」
遠く、鐘の音が響く。
世界は動く。
動き続ける。
しかしそれは自由ではない。
導かれているだけ。
伯爵家はすでに掌の上。
権力も、政治も、世論も、徐々に形を整え始める。
婚約破棄は“終わり”ではない。
――むしろ、ここからが本番。
第四章。
物語の主導権は、今――
完全にイリス側へと移る。




