第三章 scene3 前世なにしてた?
馬車に揺られて、街道を外れた小さな町に入ったとき、私たちはようやく、大きく息を吐けるようになっていた。
追手の気配はまだ完全には消えていないはずなのに、
人のざわめきと、焼き立てのパンの匂いと、どこかで鳴る鐘の音が、少しだけ心をゆるませる。
「……ここからもう少し歩けば、お母様のいる家よ」
エリーゼがそう言って前を向く。
その横顔を見ながら、私はずっと胸の中で温めていた言葉を、思い切って口にした。
「ねぇ、お姉様」
「なに?」
「前世のこと……どこまで、覚えてる?」
エリーゼの足が、ほんの少しだけ止まった。
「あなたも覚えてるのね」
「うん。事故にあって、そのあと……あの変な“婚約破棄の光景”挟んで気づいたらこの世界で。婚約破棄のショックで “前世” の記憶を思い出した」
そう言うと、エリーゼはふっと笑った。
「よかった。同じ“変な記憶”を持ってるのが、私だけじゃなくて」
「じゃあさ――」
私は身を乗り出す。
「どこにいたの? 前世。どのへんの人? 何してた?」
一気に質問しすぎた自覚はある。でも止められなかった。
エリーゼは少し考えてから、答える。
「……多分ね、日本。こことは全然違う世界。建物は石じゃなくて、変な四角い箱がいっぱいで、夜なのに町中が光ってるところ」
「やっぱり日本かー!」思わず声が弾んだ。
「私も。駅とかコンビニとか、そういう映像が浮かぶ。電車とか」
「電車……ああ、あの、たくさんの人がぎゅうぎゅう詰めになってるやつね」
エリーゼが苦笑する。私もつられて笑った。
「で、何してたの? 前の人生」
「……会社員。OLって言うのよ、あれ。
朝ぎりぎりに会社に滑り込んで、よく分からない資料作って、上司に直されて、帰りに同僚とご飯食べて愚痴ってた」
「めちゃくちゃリアル……!」
私は素直に感嘆の声を出した。
「スーツ着てた?」
「たぶん。ほら、こう――」
エリーゼは自分の身体を見下ろして、貴族のドレス姿に苦笑する。「……この服じゃ絶対に乗り換えできないわね。あの人混み」
想像できてしまって、また笑いがこみ上げた。
「私はね、大学生。心理学専攻だったと思う」
「心理学……?」
「人の心の動きとか、行動とか、“なんでそう考えるのか”を研究するやつ」
そう説明すると、エリーゼは「なるほど」という顔をした。
「だから、あなたはあの家の“おかしさ”に染まらなかったのね」
「あぁ、そうなのかな。いま思えばあれは、“洗脳”なのかもね」
「せん……?」
「洗脳。なんとなくよ。同じ言葉を繰り返して、同じ空気を作って、“それが普通”だって信じ込ませる感じ。イリスたちがやってるの、あれ多分そういうの」
エリーゼはしばらく黙って私を見つめ、それからふっと優しく笑った。
「前世、会ってみたかったわ。残業帰りの私と、レポートに追われてるあなた」
「絶対すれ違ってるよね、どこかで。駅のホームとか、コンビニとか。お互いスマホ見てて気づかないやつ」
「同じ電車に乗って、同じ広告見てたかもしれない」
「なのに今は、同じ馬車で逃げてる」
二人で、くすっと笑う。
なんだか滑稽で、でも――愛しくなる。
少し歩いて、街外れの道に差しかかった頃。
私は、ふと思いついて口にした。
「ねぇ、お姉様」
「なに?」
「私たち、前の人生だと“他人”だったんだよね」
「ええ。名前も顔も知らない。もしかしたら、すぐ近くを歩いていたかもしれないけれど」
「それが今、姉妹になってて、一緒に逃げてるってけっこう、物語じゃない?」
エリーゼは少し考え、それから頷いた。
「物語ね。だったら、最後までちゃんと続けたいわね」
「ハッピーエンドで?」
「当然でしょう?」
そこでまた笑う。
笑いながら、でも胸の奥がきゅっとなる。
前世では、きっと私は“普通に生きて、普通に死ぬ予定の人間”だった。エリーゼも、たぶんそう。
それが今
「洗脳された家から逃げて、母を取り戻して、伯爵家を取り返す」とかいう、とんでもない物語の真っ最中にいる。
でも。
隣で同じ速度で歩いてくれる人がいるなら
案外、やっていけるかもしれない。
⸻
「……マリアナ」
「ん?」
「もし、ここから先で何があっても」
エリーゼは、少しだけ真面目な声になる。
「“一緒にいたい”って思ったら、遠慮なく私の手を掴みなさいね。前世みたいに、すれ違ったまま終わるのは、もう嫌だから」
私は即答した。
「うん。じゃあお姉様も、勝手に“守る側”に行かないでね。ちゃんと、並んで歩いて」
「……努力するわ」
ふたりで顔を見合わせ、
また少し笑って――
そのまま、母のいる街の奥へと歩いていった。




