第三章 scene3 紛れる
夜の影を縫うように走り、私たちは屋敷の灯りが届かないところまで離れた。
心臓はまだ、怒鳴り声の代わりに胸を叩いている。
けれど――姉の手だけは、離さなかった。
「……ここで、少し着替えましょう」
エリーゼが立ち止まり、荷袋を開いた。
中から出てきたのは質素な布のワンピース、ヘッドスカーフ、外套。
貴族の娘のための服じゃない。ただの“街の女”の服。
「お姉様……これ、いつの間に……」
エリーゼは小さく笑う。
「昔みたいに“ただ弱いだけの私”では、いられなかったから。少しだけ、準備をしていたの」
震える指で、私はドレスのリボンを解く。
幼い頃から、贅沢でも不自由な衣服を“身分の象徴”だと教えられて育った。
でも今、脱ぎ捨てる感覚は、解放に近かった。
姉もスカーフを巻き、姿を簡素に隠す。たったそれだけで、私たちは伯爵令嬢ではなくなった。
「……紛れられると思う?」
問いかけると、エリーゼはしっかりと頷いた。
「少なくとも、“見つかりにくい私たち”にはなるわ」
その強い言い方が、嬉しくて、泣きそうだった。
少し落ち着いたところで、私はどうしても聞かずにいられなかった。
「お姉様……本当に大丈夫なの?あなた……あんなに眠って……倒れて……」
するとエリーゼは静かに息を吸った。
「あれは、“病気”じゃなかったの」
その言葉に、心臓が止まりそうになる。
「療養先へ向かう馬車を降りてから……薬から離れられて…数日経った頃」
指先がぎゅっと布を掴む。
「眠りは軽くなって。意識ははっきりして。体も、痛みが引いて“呼吸ができる”ようになったの」
私は息を呑む。
薬。あの医師。“体質です”と笑った声。
全部が頭の中で繋がっていく。
「あの医者が、来る前に逃げたの」
エリーゼは続けた。
「あそこに戻れば、また“あの眠り”に閉じ込められる。毒なのか、睡眠薬なのか、それが何なのか分からなくてもあれは、“守る薬”じゃないって分かった」
私は姉を抱きしめた。守られていたんじゃない。
“壊されていく途中だった”。その事実が怖くて。
でも気づけたことが、救いで。
次に、震える声で聞いた。
「じゃあ……お母様は?今も療養先にいるの?
それとも……伯爵家に戻された……?」
エリーゼは首を横に振った。
「違うわ」
一瞬。その瞳に涙が滲んだ。
「――お母様は、私より先に“逃げた”のよ」
私は絶句する。
「え……?」
「“私と離される前に”って。自分が“足枷になる”と思ったみたい。必ず会おうと誓って」
胸が締めつけられる。
優しくて。
歌をくれて。
灯りをくれて。
それでも、自分を“重荷”だと思ってしまうくらい追い詰められて。
「……どこに?」
私は手を握る。
エリーゼは強く頷いた。
「――母は今、街にいるわ。昔いた“あの教会”の近くに」
私は目を閉じた。
「行こう」
私は言った。
迷いはなかった。
「お母様のところへ」
エリーゼも微笑む。
「ええ。迎えに行こう」
二人で歩き出す。
夜の闇に紛れながら――
光のある場所へ向かって。




