第三章 scene1 父親
静寂が落ちた大広間で、
アックスの声だけが、確かな形を持って響いていた。
「マリアナとの婚約を解消する」
その言葉を聞いた瞬間。
胸が、鋭く痛んだ。だがその痛みは、苦悶の声としても、怒号としても、表へ出てこなかった。
ただ、喉の奥で何かが、静かに潰れる音がしただけ。
(……まただ)
そう思った。
昔、妻を守れなかったあの日。
――心臓が「守れ」と叫んだのに。
頭は「家を守れ」と命じた。
その結果、妻を、失った。
今――
娘が、切り捨てられようとしている。
それでも体は動かない。
アックスを見る。
迷いと、罪と、責任を同時に背負った顔をしている。
(ああ……お前も、か)
責任を知った男の顔。「家を守る」と誓ってしまった者の顔。
憎めなかった。
だからなおさら、苦しかった。
視線を横に動かす。
イリス。静かに目を伏せ、すべてを“正しさ”として見届ける者の顔。
(お前は“家のため”という言葉で、どれだけのものを削ぐつもりだ)
それでも――
彼女の言葉に幾度救われたのも事実。
家が崩れそうな夜、心が折れそうな朝、「あなたは間違っていません」と言い続けたのは彼女だった。
その言葉に、何度縋っただろう。
(私は……すでに、彼女なしでは立てないのか)
そんな弱い自覚が胸の奥に沈んでいる。
そして娘を見る。
マリアナ。
驚きも、涙も、怒りも見せない。
ただ受け止めて、立っていた。
(強い子だ……)
それは誇りであり同時に、胸を刺す刃だった。
本当は抱きしめて、庇って、「間違っている」と叫びたかった。
けれど。
伯爵として。
この国の柱の一つとして。
この場にいる重責の中心として。
分かっていた。
「叫べば、家が崩れる」。
そして私はもう一度。
妻のときと同じように。
“家”を選んだ。
沈黙したことが、答えだった。
それを理解した瞬間――
マリアナの瞳の奥で、何かが静かに燃えた。
怒りでもない。
絶望でもない。
抗う光。
(……すまない)
声にならない謝罪が、喉に張りつく。
だがその一言は、ついに最後まで外へ出なかった。
イリスが静かに目を閉じる。
アイリスが優雅に微笑む。
アックスが罪を抱えたまま立つ。
そして――
私は、座ったまま。
伯爵としての鎖に縛られたまま。父親として叫べないまま。
ただ“最も卑怯な形”で、マリアナを失った。
(もし……この家が本当に壊れる日が来るなら)
その時、私はきっとこう言われるのだろう。
――あなたは、守らなかったのですね。
娘ではなく、“家”を。
それが事実であり、
罰であり、
逃れられない罪だった。




