第三章 scene1 正しい婚約破棄
――「正しさ」の壇上で
伯爵家の大広間は、祝宴でもなく、慰労でもなく、ただ“整って”いた。
豪奢な装飾も、整えられた照明も、完璧に磨かれた床も。今日ここで起こることを、誰も“粛々と受け入れる準備”のために用意された舞台のようだった。
まるで、最初から結末が決まっていて、あとはそこへ静かに辿り着くだけだと告げる舞台。
私はその中央へ促される。
「……何の集まりなの?」
問いかけは小さく。返ってきた答えはなかった。
代わりに、一歩前へ出たのはアックスだった。
胸が、締め付けられる。
彼は騎士の姿勢のまま、けれどどこか“人間らしい迷い”を削いでしまったような顔をしていた。
「……マリアナ」
その呼び方は、昔と同じ。声色は、違う。
“距離”があった。
周囲を見る。
父は椅子に深く沈み、疲労に覆われながらも“何かを理解している顔”。イリスは静かに見守る位置。
アイリスは――ほんのわずかな微笑を浮かべ、完璧に整えられた姿で立っていた。
胸の奥で、何かがはっきり“形”を持った。
(ああ――これは、罠だ)
でももう、この場は進むしかない。
アックスは息を吸い、静かに言った。
「本日、皆の前でお伝えしたいことがある」
空気が変わる。
言葉になる前から、理解してしまう。
でも、理解しても。覚悟していても。心は追いつかない。
アックスの声が落ちる。
「私は伯爵家の未来を守るため、“正しい判断”を選ばなければならない」
その瞬間、イリスの視線がわずかに落ち、アイリスの微笑が静かに深まった。
そして、アックスは涙ながらに言った。
「――マリアナとの婚約を解消する」
大広間の空気が、音を失った。
息を吸う音も。
驚く声も。
悲鳴も。
すべてが喉まで上がって、飲み込まれた。
世界から“色”が抜け落ち、ただその言葉だけが胸の奥に突き刺さる。
婚約破棄。
言葉として知っていた未来。
頭では理解していた結末。
でも――現実は痛い。
胸を掴まれたみたいに、苦しい。
「……理由は?」
声が震えなかったのが、不思議だった。
アックスは、まっすぐ私を見る。美しい涙に流している。
迷いはある。
痛みもある。
でも彼は“もう戻らない側の人間の目”をしていた。
「君は、優しすぎる。感情を捨てられない。
だから――“柱”にはなれない」
瞬間。
イリスの言葉。
アイリスの囁き。
屋敷の空気。
すべてが重なる。
「伯爵家には、感情よりも“判断”を優先できる者が必要だ。家を守るには“切り捨てる覚悟”が必要だ」
だから。
「私は、“この家の未来を守る道”を選ぶ」
そして静かに歩み寄り。
傍らに立つ少女の手を、取った。
アイリス。
大広間に、静かな溝が走る。
「私は伯爵家の次代を支える者として、アイリス嬢を支え、共に歩む道を選ぶ」
婚約破棄の宣言は、同時に、新しい“選択”を明確にした。その瞬間、使用人たちの胸の奥で固まっていた“答え”に、名前がつく。
“これは判断だ”
“これは正しさだ”
“これは決定事項だ”
――違う。
声に出したかった。
叫びたかった。
“それは、ただの洗脳だ”と。
でも、身体が動かない。
声が、出ない。
アイリスが、静かにこちらを見る。
優しい顔で。
人を責めない顔で。
そして――勝者の顔で。
イリスが、静かに目を伏せる。
まるで祈るみたいに。
まるで「これでいい」と赦すみたいに。
父はただ、沈黙していた。
その沈黙が、答えだった。
「マリアナ殿」
アックスは深く頭を下げた。
罪悪感を持っている。
痛みも感じている。
それでも、決めた。
「これは……“正しい婚約破棄”だ」
その瞬間。胸の奥で、何かが音を立てて切れた。
私は、笑わなかった。
泣かなかった。
ただ、静かに呼吸をした。
そして悟った。
――私は今、この家で完全に“ひとり”になったのだと。
これは悲劇じゃない。
宣告だ。
戦いの開始の合図だ。
胸の奥の灯りが静かに、確かに燃え上がる。
(いいわ……)
あなたたちが“正しさ”を選ぶなら。
私は、“真実”で戦う。
これが、私の世界に抗う第一歩。




