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第二章 scene7 別れの朝

旅立ちの日の朝、屋敷は妙に整っていた。


人の出入りが多いはずなのに、ざわつきはなく、静かで、整えられた空気だけが流れている。

それが “歓迎されない旅立ち” ではなく、

“決められた手順のひとつ” のように扱われていることを、嫌でも感じさせた。


中庭に馬車が用意され、荷物が運び込まれていく。


母――ルミナは微笑んでいた。

穏やかで、崩れたところのない笑み。

昔、歌と一緒にあたたかさをくれた笑み。


……でもその目の奥には、消えきらない影があった。


私の手を握り、母は静かに言う。


「大丈夫よ、マリアナ。これは“治すため”の旅なの。苦しみを連れて行くわけじゃない。眠りの奥で、光を見つけるための場所へ行くだけ」


優しい声。

けれど――どこか言葉が、理屈として綺麗すぎる。


“信じたい言葉を、自分で整えている声”。


私は唇を噛む。


「……お母様。もし、もしほんの少しでも“違う”って思ったら。何かがおかしいって感じたら――」


言葉が詰まる。


「逃げてほしい」


母の瞳がわずかに揺れた。


一瞬だけ、母は“伯爵夫人”でも“強い大人”でもなく、ただの 弱さと恐怖を知ってしまった女 の顔をした。そして微笑む。


「大丈夫。エリーゼはわたしが守るわ逃げるわ。壊したくはないものはわたしにもあるのよ」

その言葉に、胸が痛んだ。


母は、まだ父を愛している。

だからこそ、ここから去ることを「逃げ」と呼べる。


そして、そのすぐ隣。

姉、エリーゼは座っていた。


毛布を掛けられた膝の上に手を置き、ゆっくり瞬きを繰り返す。その姿は、病弱で、守られるべき存在。


――のはずなのに。


私が近づくと、エリーゼは静かに笑った。


優しくて、儚くて。昔のままの笑み。


なのに、その瞳の奥だけが――

底知れない湖みたいに深かった。


「マリアナ」


かすれた声。

でも、しっかり届く声。


「――あの家は、“ただ壊れているだけ”じゃないのよ」


息が止まった。

姉は、周りを見渡す。見張りのように控えている侍女。遠くで様子を見るアイリスの視線。

それを確かめてから、もう一度私に視線を戻す。


「“形を揃えられている”の。少しずつ。

優しさに擬態した何かによって。誰も傷つかないように見せながら――

息をする場所だけ、静かに奪われていく」


その言葉は、夢の呟きみたいなのに、驚くほど現実的だった。私は強く手を握る。


「姉様……やっぱり、“ただの病気”じゃ――」

姉は微笑んだ。まるで私を安心させるみたいに。

でも、その笑顔がいちばん怖かった。


「ねぇ、マリアナ」

少し、声が近くなる。


「もし、わたしが――

“戻れなくなる未来”を、選ばされそうになったら」


言葉が途切れる。風が、馬車のカーテンを揺らした。


エリーゼは私の指を、ぎゅっと握る。


「――あなたはわたしを“守らないで”」


「……え?」


理解が追いつかない。

「守ろうとする人間は、もうきっと“檻の内側”にいる。あなたは……外側にいなさい。戦える場所に」


私の喉がひくりと鳴った。

泣きそうな私へ、エリーゼは柔らかく続ける。


「ねぇ、覚えてる?

昔、わたしがあなたの手を引いて庭を走った日」


私は頷く。


「今度は、あなたが走る番よ。わたしのためじゃない。――あなた自身のために」

それは、祈りでも、遺言でもなく。

“未来を知っている人間の覚悟”だった。


御者の声が響く。


旅立ちの時。


母は最後に私を抱き寄せた。ほんの少し震えていた。


「マリアナ。あなたは、とても優しい子。

でもね――」


母は静かに耳元で囁く。

「優しさだけでは、守れないものがあるの。だから、あなたに願うわ」


一拍。

「強くなって」

馬車が動き出す。


タイヤが石畳を走る音が、遠ざかっていく。

私はただ、その音を追い続けた。


泣かない。

泣いたら――負けだ。


ただ、胸の奥が決壊するのを感じながら、拳を握りしめた。あの言葉は、きっと“暗示”じゃない。

あれは――“予告”だ。


静かな風が頬を撫でる。

私は空を見上げ、小さく呟いた。


「……絶対、終わらせない」


優しい別れの顔をしたまま、

確実に何かを“奪う未来”を――このまま許したくなかった。

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