第二章 scene7 形を持った不安
夜が降りるころ、伯爵家はいつも以上に静かになっていた。
静寂は、本来なら安心のためにあるものだ。
でも今、この屋敷に満ちているのは――
落ち着きではなく、「何かが終わりに近づいていく」音のしない足音だ。
私は自室の窓辺に座り、外の闇を見下ろしていた。
遠く、街の灯りが瞬いている。
ここだけが――
まるで世界から切り離された孤島みたいに、冷たく暗い。
今日の会議が、まだ胸の奥で残響している。
“エリーゼを領地へ移す”
“母を付き添わせる”
“家のために”
優しい声で。
柔らかな笑顔で。
何ひとつ間違っていない言葉で。
それでも――
確実に 私たちの家族を切り離す決定 だった。
父は疲れた目で頷いた。アックスは黙ったまま、何も言わなかった。母は震える唇を噛みながら、「分かった」と言った。
そしてアイリスは、微笑んだ。
「きっと、これがいちばん伯爵家にとっての“幸せ”ですわ」
その瞬間、胸が締めつけられた。
――これは偶然じゃない。
そう思ってしまったら、
もう、知らないふりはできなかった。
家は自然と変わったんじゃない。
弱っていったんじゃない。
“方向を与えられて”、“導かれて”、“整えられている”――誰かの意思で。
私は、そっと息を吸った。
頭に浮かぶ顔がある。
穏やかに人の心へ触れる女――イリス。
完璧な令嬢であり、誰も逆らえない優しさを持つ女――アイリス。
疲れ切った父。
“体質”という言葉で眠りへ沈められる姉。
そして――
静かに、緩やかに、抵抗する人間を減らしていく屋敷。
これは、ただの不運でも、悲劇でもない。
“侵食”だ。
私の胸の奥で、はっきり言葉になった。
そして――これは戦いになる。
剣はない。
魔法もない。
優位も、味方も、ほとんどない。
あるのは、ただ一つ。
「――おかしいと思ってしまった心」
それだけ。
掌をぎゅっと握る。
爪が食い込む痛みで、かろうじて今の自分を繋ぎ止める。
(戦えるのかな、私……)
その問いに答えられないまま、私は目を伏せた。
でも――
逃げたくない。
守りたい。
あの頃みたいに笑う姉も。歌をくれた母も。
止まりかけた時間を取り戻してくれた父も。
この家が「家」だった日々も。
そして――
“これからの波瀾の未来”に向かって飲み込まれていく自分自身も。
誰かの思惑通りに、“正しい”という名の檻に閉じ込められた未来だけは、受け入れたくない。
外の風が、窓を叩いた。
私は静かに目を開く。
――きっと、ここからだ。
ここから、優しさの仮面を剥がし、
“洗脳された家”と向き合う物語が始まる。
怖い。
でも、立ち止まるほうが――もっと、怖い。
私は、胸の奥で小さく呟いた。
「必ず、取り戻す」
小さな灯りが、静かに燃え続けていた。




