第一章 scene1 会話
母とわたしの歌が終わると、少しの静寂が落ちた。
けれどそれは、息を潜める不安ではなく――
余韻を楽しむための、優しい静けさだった。
「……ふふ。いい時間ね」
母が微笑みながら言う。
その声は、さっきまで歌っていた旋律の続きみたいに柔らかい。
「いい時間だ、確かに」
父も低い声で応じる。
書類を見るときの堅い顔ではなく、肩の力を抜いた父親の顔。
私が母の袖を掴むと、母は少しだけ首を傾げる。
「ねぇ、お母様。私、少し間違えたでしょう?」
「ええ、少しだけ」
母は笑いながら私のおでこを軽く指先でつついた。
「でもね、人の声は正しさより“心地よさ”の方が大事なのよ。あなたの声は、ちゃんとここを温かくしたわ」
そう言って、母は自分の胸をそっと押さえる。
「……ね、あなたもそう思われるでしょう?」
問われた父は、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「もちろんだ。マリアナの声は……その……」
言葉に詰まり、私を見る。
私は少しだけわくわくしながら待つ。
「――自慢だ」
ぽつりと落としたその一言に、胸が一気に熱くなる。
「お父様!」
嬉しくなって近寄ろうとすると、ベッドから姉が笑った。
「ほら、マリアナ。あんまりはしゃいだら倒れちゃうわよ」
「倒れないもん!」
そう言いながら、でもちゃんと速度を緩めて姉のそばに近づく。すると、姉は満足そうに笑って、小さく肩で息をしながら言う。
「でも、本当に素敵だった。マリアナの声、昔より少し大人っぽくなったわね」
「え、本当?」
「本当。……ねえ、お父様?」
「そうだな」
父は椅子から立ち上がり、私の頭に手を置いた。
「私たちは幸せだ。歌があって、笑いがあって、こうして皆で同じ部屋にいられる」
母がふっと微笑む。エリーゼも、少し疲れた目でそれでも嬉しそうに笑っている。
暖炉がぱちりと鳴った。
それだけの音が、幸せの証拠みたいに思えた。
――この家は確かに温かくて、確かに“居場所”だった。
私は、その時の空気を胸いっぱい吸い込んで覚えておこうと思った。
いつか絶対、忘れたくなかったから。
……なのに。
今はもう、あの時とは違う。




