第二章 scene6 マリアナの抵抗
屋敷の空気は、整えられすぎている。
決まっていく。
静かに、滑らかに、“正しい形”へ。
今日もまた一つ、決められた。
「エリーゼ様の外出は――今後すべて控えましょう。回復までは、完全な安静を」
アイリスの落ち着ききった声が、部屋を満たす。
応接室。
父、母、イリス、アックス、家の重い空気の中心に、私は座っていた。
(……外出を、全部?)
私は呼吸を飲み込む。
イリスが続ける。
「お医師様のお話でも、“刺激”がいちばんいけないと伺っています。ならば――これが最もエリーゼのためになる道ですわ」
アイリスが、それを優しく包む。
「外出なんて……辛いことと同じですもの。家の中で、守ってあげればいいのです」
父は黙って目を伏せる。母は不安そうに手を握る。
アックスは苦しそうに目を閉じ――しかし、反論しない。誰も、否定しない。
だから、決まる。
「……それでいい、イリス。そうしよう」
父の声が落ちた瞬間、“未来”が一つ、閉ざされる音がした。
エリーゼの世界から、光と、風と、空と、人の気配が――切り取られる。
「ちょっと待って」
私は、気づいたら声を出していた。
部屋の空気が、ぴくり、と揺れた。
静寂。
視線が私に集まる。
(言っちゃった……)
でも、もう止められない。
「……そんなの、“治すため”じゃなくて、“閉じ込めてる”だけじゃない」
声が震えないよう、爪を掌に押し込む。
「お姉様は病人じゃない。“ガラスの人形”でもない。ずっと眠らされて、何もできなくて……それのどこが幸せなの?」
アイリスの睫毛が、わずかに揺れた。
イリスの瞳が、静かに私を見る。
アックスが息を吸う。
母が小さく震える。
私は続ける。
「お姉様は、本当は――」
“外を歩きたい”
“笑いたい”
“誰かと話したい”
言葉が喉の奥で詰まる。
(言ったら、戻れない気がする)
でも、飲み込めない。
「……“生きたい”はずよ」
その瞬間。
イリスは、悲しそうに微笑んだ。
「――マリアナ様」
名前を呼ぶ声が、優しく沈む。
「あなたが、エリーゼを愛してくださっていること……本当に、救いですわ」
(違う、そうじゃない)
「でも、それはあなたの“理想”です。現実のエリーゼは、強くありませんの」
母の手が震える。父の眉が動く。アックスが、視線を落とした。アイリスが、静かに言葉を繋ぐ。
「守ることは、時に“奪うこと”にも似ていますわ。でも――奪ってでも守らなければならないものがあるのです」
正しい調子。
優しい響き。
冷たい意味。
イリスが、そっと私に視線を向ける。
「マリアナ様。あなたは、強いのです。だから“戦える世界”を見てしまう。でも、エリーゼは違いますの」
まるで、手を取るように。
まるで、慰めるように。
「あなたの“理想”は、優しすぎて――残酷になってしまいますわ」
心臓を掴まれたみたいだった。
(わたしが……残酷?)
父が苦しげに言葉を落とす。
「マリアナ……今は、静かに見守ってくれ。……頼む」
母が泣きそうに微笑う。
「エリーゼのこと、信じてあげましょう? “守られている”ってことを」
アックスが、小さく言う。
「……俺も、そう思う」
“優しい包囲網”が完成する。
責められていない。
叱られていない。
でも――
私ひとりだけが、“間違えた子ども”になっていた。
口を開こうとする。
けれど言葉は、喉に貼りついたまま動かない。
(……私のほうがおかしいの?)
世界がねじれていく。
違う、と叫びたいのに。
正しい、と言い切れないのに。
ただ――
私だけが、場違いの存在になっていく。
「……わかった」
それだけを言うのが精一杯だった。
その瞬間。
イリスは柔らかく微笑み、アイリスは安心したように息を吐き、
――屋敷はまた一つ、“正しい形”へと固定された。
私は拳を握る。
痛いほど、強く。
声にできなかった叫びが、熱になって胸の奥に残る。
怒り。
悔しさ。
無力。
でも、そのすべての底に――
消えない“違和感”だけが、確かな灯りとして残っていた。




