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第二章 scene5 堕ちるアックス

イリスは、真正面から人を操ることはしない。


代わりに――

"信じたい未来”を、静かに、何度も、言葉として積み重ねる。


それは説得ではなく、「安心の位置へ誘導する」行為。

その夜、アックスは客間に呼ばれていた。


「お忙しいなか、申し訳ありませんわ。でも……あなたに、どうしてもお礼が言いたくて」


イリスは深く頭を下げる。年下の彼に。アックスは慌てて姿勢を正す。

「や、やめてください。顔をお上げください、イリス様」


イリスは微笑み、顔を上げる。目尻が、涙で少しだけ潤っていた。


「あなたが、伯爵様のおそばにいてくださること……

本当に、どれほど心強いか」


アックスは言葉を失う。


それは称賛ではなく――

“信頼という重み” を肩に乗せられる感覚。


「伯爵様は、強い方です。ですが……強い人ほど、壊れやすい」

イリスは指先でカップの縁を撫でる。


「家族の痛みを抱えたまま、政治と責務を背負い、それでも立ち続ける――」


小さく震える声。


「誰かが、“正しい判断”を支えなければ。伯爵家という“柱”を守らなければ」


“家族”ではなく“伯爵家”

イリスはその二つを、優しく、しかし明確に切り離す。

「感情で揺らいではいけないのです。例え、心が痛んでも」


その言葉は、アックスの胸に突き刺さり――

そして、“救い”にもなった。


(……俺は、“正しいこと”を選べばいい。いずれ俺が背負うものだ)

イリスは、彼の揺らぎを見逃さない。


「あなたは優しい方。だからこそ――

どうか、“優しさを責任に変えられる人”であってください」

決して命じない。

ただ、願う。


「あなたが伯爵様の“理性”でいてくださるなら……

マリアナもエリーゼも、この家も、きっと救われます」


“理性”“救われる”“あなたにしかできない”

その全てが、アックスに“役割”を与える。

アックスは拳を握った。

「……俺に、できるでしょうか」


イリスは微笑む。


「できますわ。だって、あなたは“正しい人”ですもの」


その瞬間――


アックスは、自分の中で音を聞いた。罪悪感が、責任という名に変わる音。


迷いが、使命という名に塗り替わる音。


そして、“誰かを切り捨ててもいい理由”が、そっと心に置かれる音。


イリスは微笑を崩さない。


(――これでいいの。彼は優しい。だからこそ、私の“正しさ”を運べる)


アックスは知らない。


それが洗脳ではなくても――

「正しさの檻」 であることに。


そして。

それでも。

自分で選んだと思い込むことが、いちばん深い堕ち方だということにも。




夜の応接室に灯る炎が、壁を揺らしていた。


アックスは立っていた。

いつもの騎士の背筋で。

しかし、その目は……迷いを抱え、縛られていた。


静かな足音。


「おやすみになられてもよろしいのに、アックス様は本当に真面目なお方ですわね」


声は柔らかく、それでいて――油のように滑らかだった。


アイリス。


完璧な令嬢。

微笑だけで人の肩の力を抜かせる、恐ろしいほど“優しい顔の刺客”。


アックスは振り返る。

「……アイリス嬢」

「イリス母様と、お話なさっていたのでしょう?」


彼女はソファに腰掛けた。誘っているわけではない。

ただ“そこに居ること”が、すでに誘いになってしまう。


それが――アイリスの武器。アックスは少し視線を逸らす。

「……この家を守るために、俺にできることを、と」


アイリスは、わずかに目を細める。

「ええ。あなたは、この家にとって必要な方ですもの」

それはただの賛美ではない。


“必要だ”と告げられた瞬間、男の心は逃げ場を失う。


責任という名の首輪が、静かに嵌められる。

アイリスは微笑を崩さない。


「わたくし、思うのです。“家族の情”と“家の存続”は、同じではないわ」


アックスは息を止めた。

「……同じでは、ない」


「ええ」


アイリスは膝の上で指を絡めた。


「優しさで国は守れません。感情で、屋敷は回りません。“正しい判断”をする人が必要なのです」


その言葉は、イリスが蒔いた“理性”の種を――


甘く、育てる言葉。


アイリスは続ける。


「そしてそれは……“わたくしや伯爵様”だけでは足りませんの」


静かに、一歩踏み込む。

「――あなたが必要なのですわ、アックス様」


その瞬間。


アックスの喉が鳴った。


胸の奥の迷いと罪悪感が、“役割”と“使命”に塗り替えられていく。


アイリスは椅子から立ち――

ほんの少しだけ、近づく。


触れない。

近すぎない。

でも、手を伸ばせば届きそうな距離。


人を落とすのに、誘惑なんていらない。


ただ、“頼る”でいい。


「マリアナ様は、優しくそして強く“犠牲を許さない人”。あなたを必要とはしていないわ」


アックスの瞳が揺れた。

「あなたは、弱い方です。だからこそ“必要な犠牲を受け止められる人”。」


二人の違いを、まるで美しい配置のように語る。


「ねぇ、アックス様。」


アイリスは囁く。


「あなたが“冷たい正しさ”を背負ってくださるならわたくしは、それを“正解”にしてみせます。わたくしがあなたを癒してそして支えて差し上げます。わたくしの愛で。弱い私たちが正しき道を守りましょう」


堕落でも、裏切りでもない。

これは、“約束”。アックスの指が、握られる。


「……君は、怖いな」


かすかな声で、彼は笑った。


アイリスは、優しい微笑で返す。


「褒め言葉として……受け取りますわ」


二人の間に――

静かな契約が結ばれた。


アックスは、偏りの“正しさの側”へ歩く。

アイリスは、“魅惑という刃”を静かにしまう。


そして


その夜。

マリアナは静かに眠っていた。


彼女の知らない場所で――

彼女の未来だけが、静かに決まっていった

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