第二章 scene5 アックスの葛藤
アックスは、昔から愚直な人だった。
嘘がつけない。
ごまかせない。
責任を投げ出せない。
だからこそ、いつも誰よりも真剣に悩んでしまう人だった。
「……マリアナ、少し話せるか」
廊下で声をかけられたとき、私は少しだけ胸が軽くなった。
彼は味方だと思っていた。
迷っても、結局は“正しい場所”へ戻ってくれる人だと信じていた。
けれど向き合ったアックスの顔は、“騎士の顔”でも、“婚約者の顔”でもない――
黙ったままの横顔。
「どうしたの?」
笑おうとした。でも喉の奥に、不吉な塊がひっかかる。
アックスは言葉を探すように視線を落とし、それから苦しそうに絞り出した。
「最近の伯爵家の方針のことだ。アイリス嬢の提案――お前は、納得していないだろう?」
驚かなかった。隠せていなかったのだと思う。
私はゆっくり頷く。
「納得していない、というより……怖いの。誰も疑わないで、どんどん決まっていくのが。それが“本当に正しい”って確かめもしないで」
その言葉に、アックスは苦い顔をした。
でも――彼は頷かない。代わりに、息を吐いた。
「……俺も、最初はそう思った。でも、伯爵様や多くの人が救われるなら、“感情”より“安定”を優先するのは、間違いじゃないのかもしれない」
胸が、きゅっと縮む。
それは彼自身の言葉であり――
同時に、誰かの声が混ざった言葉。
アイリスの声。
イリスの声。
屋敷全体の“空気”。
「感情だけじゃ、人は守れないじゃないか。選ばなければならないときがある。守るものと、捨てるものを」
その声は優しかった。
苦しんでいた。
アックス自身も傷ついていた。
だからこそ――余計に、怖かった。
「……捨てるって、なにを?」
私の問いは震える。
アックスはすぐに答えない。
沈黙が続いて、ようやく、ぽつりと落ちた。
「“昔のあり方”だ」胸の奥で何かが崩れた音がした。
「伯爵家はただの家族じゃない。家であり、象徴であり、守られるべき柱だ。
――弱さや揺らぎより、“機能”が優先されるべきなんだ」
その言葉は理屈として正しい。
間違っていない。
だからこそ――残酷だった。
私の知っているアックスは、痛みを見捨てる理屈を、“正しさ”とは呼ばない人だった。
でも今、彼は。
「アックス……それでも、エリーゼは――」
「分かってる!!」
彼の声が少しだけ強く響いた。
そして自分で驚いたように眉を寄せる。
「……分かってる。辛い。見ていられない。助けたい」
拳を握る。
指が白くなるほど。
「でも、感情のまま動いて道を誤ったら……
“支えるはずだった家”そのものが壊れる」
私は、返せなくなった。
それはただの言葉じゃない。
彼の“信念”になりかけている言葉だった。
――合理性。
――効率。
――“家のため”。
そう呼ばれているものの裏に、
何が削られ、何が犠牲になっているのかを、
彼はもう見えなくなり始めている。
「アイリス嬢の言葉は、冷たいかもしれない。けど……筋が通っている。俺は……信じたいし、力になりたい。」
“彼女を”。
そう続く未来の言葉が、喉元まで見えた。
私は小さく首を振った。
「それは……“信じたい”んじゃなくて、“信じた方が楽だから”じゃない……?」
その瞬間。
アックスの表情が――痛みを宿した。図星だったのだ。
理屈を選ぶほうが楽だ。
効率を選ぶほうが楽だ。
切り捨てを“正しい”と呼べば、罪悪感は薄れる。
それでもアックスは、静かに言った。
「……それでも。
俺は、“家を守る”ほうを選ぶ」
それは宣言だった。
まだ裏切っていない。
まだ離れていない。
でも。
――もう「こちら側からは遠ざかっている男」の目だった。
私は笑えなかった。ただ、小さく息を吸った。
「……そう。お姉様と母とわたしを切り捨てるのね」
たったそれだけ。
アックスは苦しそうに私を見て、それから視線を逸らした。「そんなことは、…言ってない」小さな声で否定し、そして去っていく背中を見ながら、私は理解する。
彼は悪人じゃない。今でも誠実だ。
だからこそ――
“正しさ”に呑まれていく。
そして、必ず傷つける。
それを止める言葉を、私はまだ持っていなかった。
胸の奥で、また火が小さく燃える。
――失われていく。
ひとり。
またひとり。
“家族”が。
“味方”が。
“昔の世界”が。
静かで、冷たい正しさの中に。




