第二章 scene4 エリーゼの限界
エリーゼが倒れるのは、いつものことだった。
……はずだった。
子どもの頃から体が弱く、季節の変わり目には熱を出し、疲れると眠り続ける。
それはずっと “この家の日常” で、「またね」で済まされる出来事だった。
でも――
ここ最近、その“いつものこと”が、静かに形を変えていく。
最初は回数だった。
「あ……」
椅子に手をつく。視線がわずかに宙を泳ぎ、そのまま力が抜ける。
支える私の腕に、驚くほど軽い体重が落ちる。
前なら数ヶ月に一度だったはずのそれが、今は――
週に何度も。
「また、ですか?」医師は落ち着いた声で言う。
診察室の空気はいつも通り穏やかで、その“穏やかさ”が腹立たしいほどだった。
「問題ありません。体質です。“無理な刺激さえなければ”安定しますよ」
その言い方に私は眉を寄せる。
「“刺激”ってなに? 普通にいえむしろ寝たきりの生活しているだけよ」
私の問いに、医師はにこやかに笑うだけ。
「それはエリーゼ様には酷ですよ。大変に繊細なのです。……守って差し上げるのが一番です」
その横で、伯爵は静かに頷き、イリスは安心したように胸へ手を当てる。
そして――それが “正しい判断” として屋敷内に浸透していく。
そして異変は回数だけじゃなかった。
眠りの質が……変わった。ただ眠っているのではない。
沈んでいく。深い湖の底に落ちて、戻ってこられないみたいに。
「お姉様、朝よ。もう起きないと――」
肩に触れる。
……動かない。揺らす。
……呼吸はある。ただ、深く、重い。
まるで“眠りに閉じ込められている”。
でも侍女は静かに毛布を整えただけ。
「よくお眠りになられるほうがいいと先生も仰っておられましたから」
さらに――
ある日、姉が目を開けた。
「お姉様!」
私の声に、かすかに笑みが返る。
……けれど、その瞳。焦点が合っていない。
ほんの数秒、いや数瞬。私の顔を見ているのに、私を見ていない目。
「――」
叫びそうになって、必死に飲み込む。
次の瞬間、姉は柔らかく瞬きをして、何事もなかったかのように私の名前を呼んだ。
「マリアナ?」
それで――終わり。
まるで“なかったこと”みたいに。
でも私は知っている。
見てしまった。
気づいてしまった。
境界が――崩れている。
眠りと覚醒。
日常と異常。
正常と、“どこかへ連れていかれている何か”。
なのに。
なのに、この家は。
「無理をさせなければ」
「いつものことです」
“慣れた日常”として処理してしまう。
“長く付き合ってきた弱さ”は――
ある日、“侵されている危機”へと変わっているのに。
誰も、そこに線を引こうとしない。
医師は言う。
「問題ありません。体質です」
父は疲れた顔で頷く。
母は不安を呑み込んだまま微笑もうとする。
イリスは優しく言葉を添える。
「大丈夫。みんなで守れば……エリーゼは幸せですわ」
――違う。違うのよ。
守ってるんじゃない。だれかが閉じ込めてる。
私は拳を握る。怒鳴りたかった。
叫びたかった。叩きつけたかった。
「これは“体質”なんかじゃない!」って。
でも声は出なかった。
声にしてしまえば、この完璧に“整えられた空気”の中で、私だけが“間違った人間”になる気がしたから。
だから――
代わりに。胸の奥に、静かで熱い火が灯った。
怒り。
まだ燃え上がるほどじゃない。
ただ、確かに存在する種火。
「姉様は、ただ弱いだけじゃない」
私は小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
――“壊されている”。
そう思ってしまった瞬間から、
もう私は元の“従順な妹”には戻れなくなっていた。




