第二章 scene3.5 イリスの狂気の始まり
あの結婚の日。
誰もが「よかった」と言って笑っていた。
家が救われた。伯爵が立ち直った。
小さな子どもが安心して眠れるようになった。
――それは、本当に“祝福”の景色だったはずだった。
ただひとり、その光景の端で静かに微笑みながら、
世界が、わずかに音を歪めるのを感じていた女を除いて。
イリス。
亡き妻の妹。
誰よりも伯爵の近くで――
ずっと“悲しみの重さ”を見ていた女。
彼女の中で、小さなひびが入ったのはその瞬間だった。
「……おかしいわね」
それは怒りでも、みじめな惨めさでもない。
ただ、“理屈”だった。
伯爵はこの家の頂点であり、責務を背負う男であり、支えられるべき存在で。
――なら、“支えるのは誰”?
家を知り、責務を理解し、妻の死を共に見届けた自分ではなく、どこから来たとも知らない女が、その場所に立っている。
世界の歯車が――
ひとつだけ間違った位置に噛み合ってしまったような不快感。
それが、最初の違和感だった。
イリスは笑い続けた。
優しい声で話した。
皆の前で、完璧な親族を演じ続けた。
そして心の奥で、静かに呟く。
「いずれ……元に戻るだけの話」
それは希望ではなく、“確信”だった。
世界には理がある。
家には秩序がある。
役割には正しい位置がある。
そして今は――
ほんの少し、ズレているだけ。
ならば、直すだけだ。
静かに。
誰も傷つけず。
誰にも気づかれないように。
この家が、
伯爵が、
そして“未来”が――
本来あるべき場所へ戻るように。
それが、「始まり」だった。
怒りはない。
激情もない。
ただ、理性だけが研ぎ澄まされていく。
祈るように微笑みながら、
“世界を正す”ための狂気だけが、
静かに、静かに、芽を出していた。




