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第二章 scene3.5 父の傷心と癒し

教会には、静かな歌声が満ちていた。


華やかな聖歌ではない。

強く響くものでもない。

ただ――

傷ついた心が立ち上がるまで、そばに寄り添うためだけの歌。


父はその中央の席で、ただ座っていた。


目を閉じているわけでもない。

泣いているわけでもない。

ただ、何もない場所を見つめている。


“喪った人間”ではなく、

“空っぽになって残された人間”の顔。


姉の母――

父の最初の妻が亡くなったあの日から、父は壊れてはいない。


壊れなかった。

代わりに――

止まってしまった。


その止まった時間の中で、父はただ責任だけを握りしめて生き続けていた。


そんな父の前に、静かに――歌が降りてきた。


ルミナ。


教会で歌を捧げていた、ひとりの女性。


高くない。

華やかじゃない。

でも、不思議な温度を持つ声。


痛みを誤魔化さない。

でも、痛みのままでいいと包む声。


彼女の歌は、堂の天井からゆっくりと降りて、

静かに、父の胸の奥に触れた。


――その瞬間。


止まっていた父の時間が、ほんの少しだけ、音を立てて揺れた。


歌が終わる頃、父は初めて目を伏せて――

ゆっくり息を吐いた。


それは、泣くこともできなかった男が、やっとひとつ傷を呼吸した瞬間だった。


教会を出ようとした父の前に、ルミナが静かに立った。


礼儀を守る、でも固すぎない距離。

優しすぎない、でも冷たくない目。


「……無理をしなくてよろしいのですよ」


それだけの言葉。慰めでも説教でもない。

ただ、“生き残ってしまった悲しみ”を知っている人の声。


父は答えられない。

強い伯爵でいる必要もないのに、言葉を失った伯爵のままでいるしかなかった。


ルミナは微笑んだ。


「あなたの悲しみは、きっとなくなりません。

でも――

歌は、“いなくなった人の温度”を忘れないためにあるのです」


涙はこぼれない。

声も震えない。


それでも。


父は――

確かに、その言葉に救われた。



それから、父は時々エリーゼを連れて教会へ足を運ぶようになった。


礼拝のためでもなく。

祈るためでもなく。


ただ、歌を聴くために。


幼いエリーゼの手を引いて。


ルミナはいつも変わらぬ微笑で迎え、歌を届けてくれた。


やがて――父は笑うようになり、エリーゼは安心して笑うようになり、母以外の“温かい女性”を知った。


そして、人々が自然にそう呼び始める。

「伯爵様に、また“灯り”が戻られたのですね」と。


ルミナと父が結婚したとき、華々しい祝福ではなかった。


でも――

誰もが“ああ、よかった”と胸を撫で下ろす、

そんな結婚だった。


エリーゼは、泣いた。

でも悲しみではなく、安心して泣いた。


父はエリーゼの母の墓前で言った。

「私は、あなたを守り切れなかった。

でも今度こそ、守る。この家も、子ども達も、そして――君も」


隣のルミナは静かに微笑んで、ただ一言だけ返した。


「あなたは、もう十分守ろうとしていました。

――だから、今度は少し、私にも守らせてください」


それが、本当の意味で、この家の第二の始まりだった。


暖炉の火が戻り、笑い声が戻り、父は“伯爵”ではなく、再び“家族の中心”へ戻った。

はずだった。



今。父はまた、“重さ”に飲まれていく。母が歌で戻した光が、ゆっくり失われていく。


私は、胸の奥で静かに拳を握る。

あの優しい歌声は、どこへ行ったのだろう。


再びの灯りを知っている家なのに。

暖かさを取り戻した家なのに。


今の冷たさが、余計に痛い。


だから私は――


この冷たい屋敷の中で、まだ消えきらない灯りを探そうとする。


ルミナがくれた光を、簡単に失いたくないから。

ルミナもまたイリスによって壊された。


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