第二章 scene3 父とイリス
書斎の灯りだけが夜を押し返すように灯っている。
扉が静かに閉まり、部屋には二人だけが残った。
伯爵はしばらく黙ったまま、机に置かれた手を握り締める。イリスは言葉を急がない。ただ、崩れそうな人に寄り添うように立っていた。
「……また、顔が浮かんでくるのだ」
伯爵の喉が震える。
「眠ろうと目を閉じると、必ずだ。笑っている顔も、泣いている顔も……最後の、冷たい顔も」
それは誰にも見せない声だった。
娘たちにも、使用人にも、もちろん外の誰にも。
イリスだけが、その声を許されていた。
「……止まらない。
“もし違う選択をしていれば”
“もしもっと傍にいれば”
“なにもかも捨ててしまっていたら”」
伯爵は額に手を当てた。
「私は誰よりも妻を愛していたのに……守れなかった男だ」
その言葉は、告白であり、懺悔だった。
イリスは静かに息を吸い、ほほえむ。
悲しみを知る者の、優しい笑み。
「……ええ。知っています。あなたは、守れなかった」
その言葉は刃のようで――
それでも、優しかった。
伯爵はその事実を否定しない。
ただ、苦しむように笑った。
「私を責めないのか?」
「責めませんわ」
イリスは首を振る。
「だって私は、あなたの痛みを知っていますもの。
姉を失った日のことを、忘れたことなんて一度もありません」
その声音には嘘はなかった。
ただ、その奥には――
別の感情も沈んでいる。
「姉は幸福でした。あなたに愛され、娘を愛し、この家を愛していた。
でも……」
イリスはほんのわずか、声を低くした。
「愛だけでは、救えなかった。そして、あなたは逃げたのですよ」
言葉が静かに落ちる。
伯爵は、唇を噛んだ。
「あぁ……そうだな、わたしは逃げた」
「はい。だから私は、わたしの愛だけでなく――あなたと伯爵家の“形”を正しく整えたいのです」
イリスの瞳が揺らめく灯りを映す。
「姉の捧げた人生が、あなたの背負った痛みが、そしてあなたが逃げた弱さがただ“悲劇”で終わらないように」
優しさと正しさが、混じり合った声。
「あなたは、もう一度傷つかなくていいのです。
今度は私が支えます。あなたが“伯爵として”立っていられるように」
伯爵は顔を伏せ、喉の奥で息を震わせた。
「イリス……君がいてくれて、よかった」
それは心からの言葉だった。
依存とも
救いとも
逃避とも呼べる言葉。
イリスは微笑む。
勝利の笑みではない。
ただ――
選ばれた者の安堵の笑み。
「ええ。
あなたは、ひとりではありません。……もう二度と」
二人だけの静かな共犯関係。
ただ支え合っているように見えるその絆は――
同時に、この家を深く縛る鎖でもあった。




