表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/90

第二章 scene3 父が戻らない

父の書斎は、いつもより明るかった。


夜だというのに、窓からの闇を打ち消すほど灯りがつき、机の上には文書が何層にも積まれている。

その真ん中で、父は椅子に座ったまま微動だにせず、ただ紙と印章だけを見つめていた。


「……お父様」


扉の前で呼びかけると、返事までに一拍、遅れた。


昔は違った。

ほんの小さな声でも気づいてくれて、「どうした?」と、顔を上げて笑ってくれた。


今は――

呼ばれた声の意味を、少し考えてから拾い上げるような返事。


「……ああ、マリアナか」


顔は優しい。

視線も柔らかい。


だけど――

どこか、焦点が合っていなかった。


私は机へ近づく。

そこには王家、侯爵家、貴族院――

そんな名が刻まれた封蝋が散らばっている。


「最近、あまり休んでいないって……皆、心配してるわ」


そう言うと、父は疲れた笑みを浮かべた。


「休んでいる暇はない。

今この家は、立場を固めねばならん。

“守られる側”でいられた時代は終わったのだ」


その声は固い石のようで、父の声なのに、父の声じゃなかった。


私は言葉を選ぶ。


「でも……

お父様が倒れてしまったら、意味がないよ」


父の手が、一瞬だけ止まる。


ああ。この言葉、昔ならきっと効いた。


「体より家を優先するな」

「家族が一番だ」

そう言ってくれた人だった。


でも――


次に出てきた言葉は、私の知っている父のものではなかった。


「……私は、倒れない」


短い。

強い。

それだけの言葉。


そこには“安心させたい”も“心配してくれてありがとう”も、どこにもない。


ただただ、「自分が倒れるはずがないと信じ込む者の声」だけ。


いつのまにかイリスが横で静かに控えていた。


「伯爵様は、大丈夫ですわ。いまはこの屋敷にとって、大切な時期。どうかマリアナ様も、伯爵様を信じて差し上げて」


柔らかな声。

寄り添う言葉。


でもそれは――

“もう、あなたの意見は必要ない”そう穏やかに告げているのと同じだった。


父は頷く。


「そうだ。イリスの言う通りだ。私は、家のために動かねばならん。それに……」


そして――

父は、私を見ないまま微笑んだ。


どこか遠くを見る目で。


「アイリスも献身的だ。あの子を養女に迎えて良かった。彼女の支えがなければ……私はもっと早く折れていたかもしれん」


胸が、痛い。


名前を呼ばれる順番が、いつの間にか変わっていた。


“私の娘たち”ではなく、“私を支える者たち”

家族の呼び方ではなく“役割の呼称”に変わっていた。


「……お父様は、今……幸せ?」

それは、聞くつもりのなかった言葉だった。

自分でも驚くくらい、声が掠れていた。


父は少しだけ眉を寄せる。

考える。昔より長い沈黙。


そして、ようやく――静かに言った。


「――どうでもいいのだ、幸せなど」


私は息を呑む。


「ただ……進むしかないのだ。

あの日から、私は止まってはいけなくなった。止まったら、また“守れない”から」


“あの日”姉の母が逝った日。

その傷は、時間では癒えなかった。

むしろ、傷の形をしたまま固まってしまい、動けないまま装置になってしまった。


政治を見る装置。

成果を見る装置。

責務だけを燃料にする、機械のような人。


イリスが静かに、優しく言う。


「伯爵様は、もう大丈夫。この家は、必ず“正しい道”を歩めますわ」


父は、小さく笑った。


その笑みが“支えられることへの安堵”ではなく、“自分の代わりに考えてくれる存在を得た安心”だと、嫌でも分かった。


――戻らない。

この人はもう、“父”として戻ってこない。私は理解した。


胸の奥で、なにかが崩れた音がした。

それでも私は頭を下げる。


「……無理だけは、しないでね」

そう言うしかなかった。


父は優しく頷く。優しいだけの、遠い人の顔で。


その優しさが――

一番、残酷だった。


書斎を出ると、背中が勝手に震えた。


泣きたくなるほど悲しいのに、涙は出なかった。


感情じゃなくて――

“現実”として理解してしまったからだ。


父は壊れてない。

でも、父はもう“帰ってこない”。


この家の誰よりも先に、父は家族を降りて、伯爵になってしまった。


私は静かに扉を見つめる。


――その扉は、もう家族を迎える扉じゃない。

“政治のためだけに開く扉”になってしまったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ